2014/08/06
全盲の人も「見る」
見ることと目は関係があるのだろうか? 視覚障害者と話していると、そんな根本的な疑念が浮かぶ。
たとえば、視覚障害者のための生活補助用品の展示会に行ったときのこと。あるブースで、はちまきのようにおでこに装着して使用する見慣れぬ装置のデモンストレーションが行われていた。どんな装置なのか話を聞いてみると、これを装着すれば目を使わなくとも足元の障害物や道の端が分かるようになる、とのこと。装置はまず、目の前の風景や映像を一瞬ごとにビットマップ化し、それを電気的な刺激に変換する。装置との接触部分であるおでこはそれを出力するスクリーンであり、おでこが受け取る面的な刺激を通して、「ものがそこにあること」や「ものが右から左へと動くこと」が分かるというのだ。デモンストレーションでは装置はDVDプレイヤーにつながれており、ディスニーアニメを電気的に受信することができるようになっていた。私は興味をひかれ、ブース前の行列に並ぶことにした。
しばらくして私の番がやってきた。しかし、結果はまあ予想通りだった。装置をおでこに装着しても最初は物の立体感はおろか何の刺激も感じることができず、電圧を最大にしてもらってようやく感電するようなビリビリとした感覚をわずかに感じるのみ。私にとっては、残念ながら、その商品はどちらかというと低周波マッサージ器のようなものでしかなかったのである。ところが、私の次にその商品を試した視覚障害者の反応は違った。最初はうまくフィットしなかったようだが、スタッフが微調整するうちに、その人は「あ、見える見える!」と言ったのである。DVDプレイヤーにつながれたモニターの中をリスが走り回るたびに、その人は「見える」という言葉を使ったのである。
確かに、視覚障害者と関わるなかで、彼らがごく自然に「見る」という言葉を使うのを私は何度も耳にしている。その多くはもちろん、慣習的な言葉の使い方に合わせて使っている場合だ。たとえば「映画を聞く」と言わずに「映画を見る」と言うのは、日本語の表現にとって、そう言ったほうが「自然」だからであって、彼らが実際に「見た」という事実を指しているわけではない。晴眼者だって、話の筋が「見える」、「見かけ倒し」、「一見すると」など、「見る」にまつわるさまざまな慣用表現を使いこなすときに、文字通りの意味で視力を使うわけではない。そうした表現は、実際の視覚的経験や視覚的実感とはさしあたり無関係だからだ★1。
しかし、どうやら視覚障害者が口にする「見る」「見える」のすべてが、純粋に言葉の慣用的な使用とも言い切れないように思えるのだ。晴眼者が「向こうに山が見える」と言う場合と同じように、何らかの主観的な経験や実感を指すために「見る」「見える」という言葉を使う場合も確かにあるらしいのである。少なくとも、冒頭の補助装置をつけた視覚障害者が叫んだ「あ、見える見える!」は、言語使用の慣習としての「見る」ではなかった。それは間違いなく、自らの経験や実感を表す言葉としての「見える」だった。
これをいったいどのように理解すればよいのか。通常の常識にしたがえば、「見る」とはまずもって目の機能である。しかし私の経験では、目や視神経の生理的な機能を奪われた人が物を「見る」ということが現実に起こっているようである。つまり目を使わずに「見る」ということがどうやらあるらしいのである。もしそうだとすれば、「見る」という言葉で私たちが通常理解している経験や感覚は、私たちが思いこんでいるのとはだいぶ異なる輪郭をもっているらしい、ということになる。ヴィトゲンシュタインにならって、言葉の意味をその使用に求めるとするならば、私たちは、視覚障害者の「見る」「見える」という使用法を含めた形で、「見る」という言葉の意味をとらえてみなければならないことになる。つまり、「見る」を目から切り離し、目および視神経の生理的な機能を備えていることは「見る」ための必須条件ではない、と考えるほうが正しそうなのである。
点字を「読む」
目と切り離された「見る」を理解するためには、「見る」をサブカテゴリーに分けて考えてみると分かりやすい。
たとえば「読む」。視覚障害者はブライユ点字を「触る」とは言わずに「読む」と言う。もちろん、彼らは指先を点字の上に乗せ、その凹凸を触覚によって感じる。しかしその場合の「触る」は、例えばマシュマロの柔らかさを確かめたり、タオルの肌理を味わったりするのとは全く異なっているのだと言う。インタビューした木下路徳さんがあくまで「ぼくの場合」という前提で語ってくれたところによれば★2、点字が読めるからといって必ずしも触覚が鋭敏だというわけではない。小さな突起から成る点字を読む能力と、タオルの毛の一本一本を感じたり、織り方の違いを言い当てる能力は同一のものではない、というのである。なぜか。そもそも点字において点はランダムに並んでいるのではなく、一定のルールにのっとって配置されている。つまりパターンがあるのである。しかもそのパターンが分かりやすいように、点を盛り上げる高さや点と点の間隔がデザインされているのだ。一方、タオルの毛にはそのようなパターンはない。製造工程において特定の製法にのっとって織られてはいても、人間が「読む」対象となるような分節やルールがそこには存在しないのである。つまり点字を「読む」とは、複数の点がつくる配置のパターンを理解し、その連続に意味を見いだしていく行為であり、それはまさに晴眼者にとっての「読む」が、紙やスクリーンの上の線や点が作るパターンを認識してそこから意味を構成していくのと同じなのである。点字を理解することは、同じ指を使う行為だとしてもタオルの毛を触ることからは遥かに遠く、むしろ目を使って墨字を読むことのほうにずっと近いのである。視覚障害者にとって2つのタオルの触感の違いを感じることは、晴眼者にとって2人の人の筆跡の違いを認識するようなものだろう。分かる場合もあるし、分からない場合もある。速く読む能力と筆跡の違いを見分ける能力は関係がない★3。
つまり、こう考えるべきではないだろうか。「読む」は「見る」のサブカテゴリーであると同時に、「触る」のサブカテゴリーでもある。別の言い方をすれば、「読む」を目で行うことはできるが目は必ずしも「読む」にとって必須のものではなく、触覚でそれを行うこともできる。あるいは楽譜を「読む」場合なら、視覚だけでなく聴覚の働きも要するだろう。つまり「読む」とは、特定の感覚器官の能力ではなく、「パターンを認識してその連続に意味を見いだす」という認識のモードないし注意のタイプに対する名前と考えるべきではないだろうか。繰り返すが、私がここで問題にしているのは、単なる言葉の使用法ではない。重要なのは、「読む」と名付けられている経験の内実である。「読む」という認識のモードないし注意のパターンに従うことで私たちの身体が経験することは、その過程でどの感覚器官を用いていようが、同じような構造を持っていると考えられるのではないだろうか。もちろん、たとえば「目が合う」のように視覚特有の出来事が存在する以上、感覚器官間の差異を無視することはできない。とはいえ、身体的な構えは器官のいかんによらず共通のものがあり、能力を特定の器官から解放したほうが、経験の実態にあっているのではないだろうか。そしてこうした器官中心の身体観から解放されることこそ、本連載の目的である「他者の身体に対する想像力を鍛える」ためには重要ではないだろうか。
「読む」以外の能力についても、同様の「器官からの解放」を考えることができる。たとえば「眺める」。洋服屋で特に買う気がないまま棚の上に置かれた商品を見て回ることと、カフェで遠くの話し声や外の車の音が耳に入ってきている状態、これは視覚/聴覚の区別にかかわらずどちらも「眺める」と言うべきだろう。つまり「眺める」とは、強いて定義するなら、特定の対象に焦点を定めずに、周囲に存在する自分の行動にすぐには関係のないさまざまなもの(でもいつか関係するかもしれないもの)についての情報を集めること、と言えるだろう。難波創太さんは、失明直後は周囲の視覚障害者の「眺める」能力に舌を巻くことがよくあったと言う★4。「ベテラン」の視覚障害者は、たとえば、会話をしながら周囲の様子を音によって「眺めて」いるので、教えなくてもトイレの場所が分かってしまう。「眺める」は状況把握には必須の認識のモードである。同様にして、「注目する/傾聴する」「見入る/聞き入る」「面食い/声食い」など、視覚を用いた認識と、聴覚や触覚といった視覚以外の感覚器官を用いた認識が、認識のモードや注意のタイプによって分類することで、実は同類のものである、ということがわかる。
感覚器官間の区別の乗り越えは、とくに目で見た経験を持つ中途失明者にとっては現実的な問題である。ダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)のアテンド「カエルくん」は、DID主催のトークイベントで、失明した直後は「触る」しかなかったが、それが「見る」に近づいていった経験について語っている★5。「最初は盲導犬を触っても、毛のかたまりでしかなかった」。「触ることって大ざっぱだな、情報としては頼りないな」。でも次第に、「触る」が「見る」に接近してきたという。「人の体を触ったときにそこが肩だとわかると、それにつながる手や頭が「見えて」くる」。換言するなら、一般的に触覚は直接的で部分的な認知にかかわる感覚とされているが、これが間接的で全体的な認知という視覚的な認識のモードに従って使用されるようになると、それは確かに「見る」と言えるのではないか、とカエルくんは言っているのである。ここで重要な働きをしているのは、あらかじめ持っている知識や想像力による感覚の「補完」である。晴眼者にとって知識や想像力と触覚の結びつきは限定的で、むしろ視覚の方が親和性があるが、このような「補完」が触覚に対して起こるとき、それは「見る」に接近していく(知識と感覚の関係については次回以降のエッセイで触れる予定)。
身体の可塑性
あまりに唯物論的な思考に陥るのは危険だが、この感覚器官間の区別の乗り越えに関しては、興味深い研究がある。生理学研究所の定藤規弘らがfMRI等で確認したところによると★6、視覚障害者が点字を読むときには、脳の視覚をつかさどる部分、すなわち視覚皮質野が発火しているのだという。つまり脳は「見るための場所」で点字の情報処理を行っているのだ。脳の可塑的な性格は近年注目を集めているが、視覚障害者においては、視覚的な情報を処理する必要がなくなるため、視覚野が視覚以外の情報処理のために転用されるようになるのだという(晴眼者ではこうしたことは起こらない)。脳のみならず私たちの身体全体は、細胞の分化、器官形成、ネットワーク等さまざまなレベルの可塑性を有している。障害者と身体について考えることは、とりもなおさず、こうした身体の可塑性、言い換えれば身体と人間の創造性について考えることである。とりわけ人生の途中で障害を得た人びとは、ロバート・マーフィのいう「再身体化」を経験する。自らの新しい身体に適応するために、それまでとは違う身体の使用法を考案するのである。
じっさい、同じ視覚障害者でも、「見えない」という状況に対する対応の仕方はさまざまだ。もっぱら音で周囲の状況を把握する人もいれば、とりあえずぶつかることで物があることを把握する人もいるし、手で触ることを重視する人もいる。それぞれオリジナルなやり方で「見えない」という欠損を埋め、見える人が目を用いて行っていることを目以外の器官を用いて行う。それはまるで、自分の身体にフィットしない物理的社会的環境にあわせて、自分の身体をいわばDIY的に作り上げているかのようである。そう、私達は身体によって作られていると同時に身体は私達にとってさまざまに作りあげる対象になりうるのである。私達の身体は、ひとつのあり方を受け入れていてもそのあり方を解除し、状況の変化に応じてまた粘土のように作り変えることのできる物体である。「別の仕方で作られる」可能性を、私達の身体は常にたずさえている。私達は可塑的である。
私が視覚に障害のある人たちと関わるなかで感じるある種の感動とは、彼らがさまざまな仕方で自らの身体を作り替えながら、まさにこの人間本来の可塑性を体現しているからである。もっとも彼らには、苦労はあるかもしれないが「作っている」という意識はないかもしれない。可塑性を体現しているつもりもさらさらないだろう。しかし、障害がいわばひとつの変数となって、身体の隠れた可能性が表に出てくるのである。そこには、ある根源的な創造性があるように思える。
今回のエッセイでは、視覚を使うことなく「見て」いる視覚障害者の事例を通して、「見る」を視覚というただ一つの器官による独占状態から解放し、認識のモードないし注意のタイプによって定義する可能性について論じた。視覚中心の社会のなかで行きて行くために、「目なしで見る」方法を彼らはそれぞれ独自のやり方で編み出しているのである。それはすばらしいが、でも、可塑性を発揮して周囲の環境に「あわせる」ことは絶対的に必要なのだろうか。そんなことない、と私は思う。障害者たちはまた、自分たちにとって不自由な周囲の物理的社会的環境に「あわせない」すべも知っている。その技の名は「ユーモア」である。次回は、この点について考えてみたい。
- ★1
- 個々の言語使用の場面においては、比喩的な表現が身体的な感覚を伴うことはない。しかしながら語源的には、比喩表現と身体的な感覚のあいだには密接な関係があるというべきだろう。たとえばフロイトは、『ヒステリー研究』のなかでヒステリー患者においてはこうした関係が顕在化する症例について報告している(2巻、181)。またスーザン・バリーは、『視覚はよみがえる』のなかで、自らの生理的能力の変化が思考法に与えた変化について報告している。幼いころから斜視で二次元視力しかなかった彼女は、48歳にして視能療法によって立体視力を取り戻す。「何より驚きだったのは、視覚の変化が考え方にまで影響をもたらしたことだ。いままではずっと、段階を追うようにして物を見て考えていた。片方の目で見て、次にもう片方の目で見るというやりかただ。(…)わたしがそのやりかた〔細部と全体像を同時に把握する考え方〕をようやく理解したのは、中年になって、ふたつの目で同時に見るやりかたを学んだときだ」(183)。
- ★2
- http://asaito.com/research/2014/04/post_13.php
- ★3
- 点字を読む能力を触覚の一部と考える発想は、「点字が読める人はすぐれた触覚の持ち主である」という「偏見」とむすびつきがちである。木下路徳さんは、そうした偏見に対するとまどいについて言及している。
- ★4
- http://asaito.com/research/2014/06/post_16.php
- ★5
-
以下の動画の33分40秒あたり
https://www.youtube.com/watch?v=tUEA_NVLbJs - ★6
- http://www.nips.ac.jp/fmritms/outline/researchachievements/by2004/02-2.html