BONUS

The canon shot, by Willem van de Velde the Younger.

未来へ向けた視点を提案する
エッセイ
障害者と考える身体
(5) 文化的構築物としての耳
文・伊藤亜紗

文化的構築物としての耳

この連載「障害者と考える身体」では、これまで、視覚に障害がある人にフォーカスをあてて、彼らとの対話から見えてきた人間の身体や感覚のあり方について考察してきた。今回からは、視覚ではなく聴覚に障害がある人に注目していく。やりとりを筆談で行った点をのぞけば、当事者との対話をもとに議論をすすめていくスタイルは以前と同様である。

というのも、のっけから宣伝になってしまうが、12月18日にろうの写真家である齋藤陽道さんと「声の居場所」という筆談トークイベントを行うので、そのためのブレインストーミングをこのBONUSの場を借りてしておきたいから。とにかく分からないことだらけなのだ。

なぜなら、見えないことと聞こえないことは、同じ感覚器にかかわる障害といっても、全く性質の異なる障害だから。私自身、実際に話を聞いてみるまでは、その違いは単なる感覚器の種類の違いだと思っていた。ところが実際に関わっていくと、両者のあいだにあるのは障害の種類の違いではなく、根本的な障害の質の違いなのである。

ひとことで言うなら、視覚障害は認識にかかわるもの、聴覚障害はコミュニケーションにかかわるものである。見えない人が自分の今いる場所について得る情報の質と量は、見える人とはかなり異なっている(だからこそ、見える人からするとユニークな「意味」が生まれうる)。けれども見えない人と見える人は、おしゃべりをしながら、言葉によって同じ時間を共有することができる。つまり差異はもっぱら認識面に生じるのである。さらに、視覚障害者はたいていは周りの人から見てすぐに視覚障害者だと分かる。

他方で聞こえない人は、自分の今いる場所については、視覚によってかなりの情報を得ることができる。人間の認識能力のかなりの部分は視覚によって担われているから、聴覚情報が得られないとしても、そのことによって生じる欠如は視覚障害に比べると相対的に少ないのである。しかし、聞こえない人と聞こえる人は、日本手話ができないかぎり、会話をすることが難しい。もちろん筆談でコミュニケーションをとることはできるのだが、移動しながらは不可能だし、立ち止まって筆談をしたとしても、どうしても交互に書く形になるので、刻一刻変化していく感情や思考の流れを共有するような感覚は得にくい。つまり聞こえない人と聞こえる人は「つながっている」という感覚、一体感やグルーヴ感を共有しにくいのである。

この「つながりにくさ」は、身体と言語の両面を含んでいる。まず身体的側面について。生まれつき聞こえない木下知威さんは、この「つながりにくさ」を「自分の身体と環境が分離するような感覚」と表現している。「ウォルター・オングは視覚を外部にあって、表面をとらえるもので、聴覚はあらゆるところから身体のなかに音が集まってくると〔言っています〕。それを「ハーモニー」と表現していますよね。わたしにはあらゆるところから集まってくる音がなく、自分の身体と環境が分離するように感じられるかもしれません。その場で起こっている雰囲気と融和するような実感に乏しく、空しさのなかにいるのかもしれない、という感覚です」★1。手話で語り合う限りは、たとえば4−5人で話しているときに、「あぁ、そうそう」「あるある」といった手話が一斉に出るときなど、一体感が感じられる(それは木下さんによれば、「格闘技」や「コーラス」のようなものである)。しかし、音によるコミュニケーションとなると、身体に「入ってくる」感覚が持てない。この場合の音は、必ずしも発話された声にかぎらないだろう。しばしば指摘されるとおり、音の特徴とは意識せずとも「入ってくる」ことである。声以外の音、つまり音楽やさまざまな生活音、あるいは自分の身体から出る音などが、無意識のうちに身体を環境へと溶け込ませているのであって、聞こえない人はこのような広い意味での一体感を得にくいのである。

もっとも、この身体的な「つながりにくさ」を埋めることは、手話以外の方法でも可能である。たとえば木下さんは、子どもの頃にとなりの部屋でお母さんが行っていたピアノのレッスンを床の振動を通して感じていたというし、ミュージックビデオの映像を見てリズムを楽しむこともあるという。あるいはこんどイベントを行う齋藤陽道さんにとっては、写真が「声」であると言う。つまり写真を撮るという仕方で、被写体や世界とつながろうとしているのである。

視覚言語としての日本手話

次に「つながりにくさ」の言語的側面について。これは端的に言って、音声言語(さしあたり日本語)と視覚言語(手話)のあいだの翻訳に関する問題である。あまり知られていないが、手話には大きくわけて二つの種類がある。すなわち「日本語対応手話(手指日本語、シムコム)」と「日本手話」である。「日本語対応手話」とは、日本語の文法や語順に、手話単語を当てはめたものである(多くの人が手話といえばこちらをイメージするのではないか)。他方で「日本手話」は、日本語とは全く異なる文法構造を持ち、口の形や眉、首の動きなど、手以外の身体的な部位も併用する。一言で言えば、前者は日本語の一種、後者は日本語とは別の言語なのである。我が国でも1995 年に広く知られるようになった「ろう文化宣言」は、ろう者を「日本手話とは異なる言語を話す、言語的少数者」★2と定義しており、言語的マイノリティの立場からその文化的独自性を主張している。

言語面での差異が強調される背景には、長年にわたる口話主義教育がある。一八八〇年のミラノ会議以降基本的に現在まで、ろう学校では、音声言語(日本語)の習得が最大の目標とされてきた。つまり、発語と発音を用いたコミュニケーション(口話)が最善であるという信念のもと、相手の唇の形を読み、一度も聞いたことのない音を発音させるという仕方で、音声言語を身につける訓練がなされてきたのである。しかし教師から押し付けられる日本語とは別に、生徒たちは陰では教師の知らない言語、つまり日本手話でコミュニケーションをとっていた。つまり聴覚障害者にとって自然に身につけやすい日本手話が、教育の現場では抑圧されてきたという歴史があるのだ。(もっとも、だからといって日本手話で教育を行うことが最善の道であるとは言いきれないだろう。それはまた別の問題であろう。)

言語が違うということはものを考える道具が違うということである。実際、聞こえない人と筆談をしていて、話が込み入ってきたとき、ノートに文字を書くまえに手話で「独り言」を言って考えているのに出くわしたことがある。手話でなら思い浮かんだことを言えるのに、それを日本語に翻訳できないような場面もしばしばあった。手話で考えるとはどういうことなのか?これについてはまだリサーチ途中であるが、それはつまり視覚で考えるということなのだろう。視覚といっても、それは単に表情や指を目で見るということではない。ろう者の演出家である米内山明宏によれば、手話をするとは「映画や舞台を作るようなもの」だと言う。つまり手話で伝えるとは、体の前にスクリーンや舞台のようなものを作り上げることであって、手話とはその空間と時間をいかに編集するかが文法であるような言語なのだ。米内山はその「文法」例をいくつもあげている。例えば、車が急ブレーキをかけて前につんのめる様子まで表現する「写実性」、遠くにあるものを小さく表すような「遠近法」、異なる場面をつなぐ「モンタージュ」、行動する場面によって体の向きを変える「落語法」(主に年配の方が行うらしい)、一定時間表現を固定する「残像法」…。そのような「見せる言語」で思考するとはどういうことなのだろうか

筆者は、そのような聴覚障害者のコミュニケーションに関する身体的・言語的側面についてリサーチしていきたいが、その前提として、まずは音について聞こえない人がどのようなイメージを持っているのか、すでに何度も発言を引用ししている木下知威さんにインタビューをした。ただし木下さんは、聞こえない人の中では、少し特殊な存在かもしれない。なぜなら彼はアカデミズムに属する研究者であり、本を読んだり論文を書いたり講義を行うことを生業としているからである。つまり彼は日本語で思考し、日本語でコミュニケーションをとる文化圏に(も)足場を持っているのだ。また彼には自身の感覚的経験について記したテキスト[PDF]もある。以下の考察にあたって、インタビューだけでなくこのテキストも多いに参考にさせていただいた。

音の主観化:「自分の震え」としての対象の音

そのテキストの中で、木下さんは、いくつもの「音を聞く」経験について語っている。その音の中には、「音でない音」も含まれている。絵画や文学における音、つまり視覚や言語によって表象された音である。

たとえば木下さんは、ウィレム・ファン・デ・ヴェルデの絵画『砲撃』を例にあげる。戦艦が砲撃を受け、すでに人びともボートで逃げ出している様子を描いているらしいこの絵を見たとき、木下さんは、「耳の奥がかすかに振動しているのを体内で感じ」たと言う。「わたしの耳、正確には鼓膜のあたりには残響が残る。聴者でいえば、轟音で耳がしびれたような感じと似ているかもしれない」★3。この耳の奥に生じた振動は、聴者にとっての耳鳴りや空耳と同一視してはなるまい。耳鳴りはあくまで「想像された音」であり「主観的に作り出された音」にすぎない。聞いている本人は(精神的な疾患でない限り)、現実に鳴っている音と耳鳴りや空耳を区別することができる。

しかしながら、聴覚障害者が音を感じるとき、それはすべて振動として感じるのである(そう、聞こえない人は音を全く感じないのではなく、コップを置く感触や花火の振動という形で感じているのである)。音を振動として感じるとはどういうことか。それは、音源との直接的な接触(たとえばスピーカーや音叉に手を触れること)がない場合、経験が完全に主観的なものになるということを意味する。「対象の音を聞く」というより「震えている自分を感じる」という経験になるのである。こうしたことを考えるならば、木下さんの経験が、木下さんただひとりのものであるとしても、彼はまさにこの絵に音を「知覚した」と言わなければならないだろう。この聴覚障害者特有の音の主観化を、木下さんはジョン・ケージが無響室で自分の神経と血流の音を聞いた経験と重ね合わせている。「無音室のように体内の音が鼓動しているなかで『砲撃』と相見えることになる。(…)わたしはこの絵の前に佇むとき、 主体そのものの心臓や血管が鼓動し、絵が生を奏てることで応答するように感じている。と考えてみれば、わたしのなかで一点に凝固された音があり、その音はわたしの体内と融合し、あらゆる音のイメージに変化しうるもののように思われる」★4

「対象の音」を「自分の身体=生の震え」として知覚するというこの主観化を、木下さんはさらに、「甘えん坊な音」「私に寄り添う音」、あるいはその逆としての「音(声)を剥がす」というイメージで語っている。音を通して環境と溶け合っていないということは、音が環境に拡散していかず、自分にぴったりとくっついたままになるということを意味するのである。「音は母親から手を離さない甘えん坊のように、片時も離れることなく常にわたしの身体にぴったりとくっついているがゆえに、空気のなかに音が躍動して消え去っていくことをわたしは追認することができ」★5ない。このようにくっついたままの甘えん坊であるから、木下さんにとって自分の声が相手に届くところを想像するとは、「声を剥がす」ような出来事であるという。そして、そうやって「剥がす」ことで、「その世界に入り込むこと」ができるのである。「まとめていえば、聾の身体は自ら発声しても、それを自分の身体から引き離すことができない。ゆえに、わたしはなにかと対峙したときに、 その世界に入り込むために自分の身体から声を剥がすという行為をおのれに 求めている。一生、おのれの耳で音をきくことはないであろう身体からすれば、 耳で聴くことは夢や想像の世界でしかなく、自分に寄り添おうとする声を引き 剥がさなければ、耳で聴くことを想像することができないからである」。★6★7

木下さんは、絵画だけでなく文学に対しても音を聞くことがあると言う。たとえば推理小説に出てくる、恐怖をかき立てる足音等の表現。木下さんは、こういう足音の表現に対して確かに恐怖を感じるという。「推理小説、ポオの『モルグ街の殺人』やドイルの『まだらの紐』では、音が犯罪に結びつくシーンがありますよね。そこはどきどきしながら読んだのを覚えていて、なんだか後ろが気になったりする。音の主が何者か見えないことの怖さはわたしにもあるのではないか」★8。これは、聴者がしばしば経験することだろう。つまり文学の中に文字として表現された音を読んでいるだけなのに、まるでその音を自分が実際に聞いたように感じる、という経験だ。木下さんにも同様の感覚があり、しかもここでは反射的に音の主を探そうとしているのが興味深い。主観化しているとしても、その音を「もっとよく聞こう」と注意を向けることが日常的にあるということだろう。

文化的な構築物としての耳

木下さんは生理的には音を聞く能力を持たない。しかしながら絵画や文学に、木下さんは音を聞いているのである。聞いているといっても、木下さんは音色の違いや音量の違いを聞き分けてはいない。音が大きいか小さいか、あるいは高いか低いかといった区別は木下さんにはなく、すべての音を「等しく」経験している。木下さんの言い方によれば、あらゆる性質が「ひとつの点」に凝縮されているのだ。「注意しておくべきことに人から軽く肩を叩かれた音も記憶しているように、必ずしも大きな音ばかりを記憶しているのではなく、それらの音を「等しく」経験している。 触覚を経て経験したなかで、たいへん大きな音、小さな音、高い音、低い音それぞれの性質がひとつの点に凝縮されている」★9。つまり木下さんにとって音はひとつであり、その音にすべての音が含まれているのである。

では聴者はどうか。ここでも連載第3回目のエッセイで述べた「情報」と「意味」の区別が重要である。音が大きいか小さいか、高いか低いか、といったことはあくまで客観的な「情報」に属する。しかし現実の生活のなかでは、音を純粋な情報として聞く経験は少ない。もちろん聞こうと思えば情報として音を聞くことはできるが、それはむしろ、楽器の調律をしているときのような特殊な場合のみである。通常、聴者にとって音とは「意味」である。つまり、音源の認知、感情や注意の喚起、反射的な行動等と結びついているのだ。「バタン→ドアが閉まった→今日は風が強い」「コツコツ→誰か来た→怖い」といった具合に、情報としての音は聞き手の文脈にはめ込まれて「意味」として経験される。

そして音の表象、とりわけ文学における音の表象は、この「意味」の部分に特化してなされる。いや、もっといえば文学は、音を「意味」として再現する芸術である。そもそも音を文字化する過程じたいが文化的な(人為的な)変換を含んでいる(にわとりの鳴き声が言語によって異なって聞こえるように)が、その問題はひとまず措こう。文学においては、音が純粋な「情報」として、つまりそのボリュームや周波数が数値として記述されることは、基本的にありえない。むしろ、その音が登場人物によってどのように聞かれたか、登場人物にどのような効果を与えたかという「意味」が記述される。そしてその「意味」が、小説においては音そのものなのである。

聞こえない人は、生理的な聴取能力を欠いている以上、情報としての音を聞くことはない。しかしながら、意味としての音であれば十分に聞いている。そう言いうるのではないだろうか。とりわけ木下さんように、テキストを読む経験を豊富に持っている人であれば。つまり、推理小説におけるしのびよる足音そのものは聞こえなくとも(それは聴者だって聞こえない)、それがもたらす「恐怖心」として、足音を知覚ことはできる。それが木下さんに起こっていることではないだろうか。これは極めて感情移入的な知覚である。なぜなら、ここでは読者が、登場人物が現在立たされている状況に同一化するような仕方で音を知覚しているからだ。いやむしろ、登場人物や語り手の耳を借りるからこそ、その小説空間の音が聞こえてくる、と言うべきなのかもしれない。この同一化による聴取は、読者が生理的な聴取能力を持っているか否かによらない。本論では深入りしないが、このことは、「自分の身体機能を他者に貸し与えること」としての「読むこと」に関わる本質的な問題である★10

つまり木下さんは、意味を聞くことはできるのである。意味のための耳。この耳は後天的なものである。どのようにしてこの耳が実装されたかといえば、言うまでもなく、木下さんのこれまでの文化的な経験によってであると考えられる。こういう状況ではこういう音がして、それはこういう「意味」をもたらすのだ、という一連の観念連合を、木下さんはさまざまな表現(主に小説が大きいのではないかと思う)を通じて知っており、その観念連合が、新たな意味=音を知覚する際の基盤となっているのだ。過去の経験が器官となり、現在の認識を構造化する。つまり耳には二種類あるのではないだろうか。ひとつは生理的な耳、つまり情報としての音を知覚する、目に見える耳。そしてもうひとつは文化的に構築された耳である。これは目には見えない器官だけれど、生理的な耳が機能しているかどうかにかかわらず、後天的に獲得されるものであり、意味としての音を知覚する★11

ある種の耳は獲得されるものである。もっとも、生理的な耳と文化的構築物としての耳は、まったく無関係ではないだろう。振動として知覚した音が、文化的構築物としての耳を支えている、ということは多いにありうることである。さらに、文化的構築物としての耳は視覚的なイメージとも連動するものだろう。『砲撃』という絵画に音を聞くというのは、まさにそのような経験である。見ることが目という特定の器官から切り離し得たように、聞くことも耳という特定の器官から切り離し得る。聴覚についても「器官からの開放」をはかることが、身体的想像力を鍛えるうえで重要なのではないだろうか。

★1
http://asaito.com/research/2014/05/post_15.php
★2
ろう文化宣言はについては『現代思想』1995年3月号、『現代思想 臨時増刊号』1996年4月号(2000年に『ろう文化』として書籍化)に詳しい。
★3 - 6
「声を剥がす」『共感覚の地平』所収(pp. 61-72)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51545/1/Kitamura_panel.pdf[PDF]
★7
聴者の場合、『砲撃』のイメージを見て砲撃の音を想像する人は必ずしも多くないのではないだろうか。そもそもこの絵が砲撃の瞬間を描いたものではないというのもあるが、そもそも絵画に特定の音を感じることは少ないのではないか。どこまで普遍性があるのか分からないが、私自身は、特定の音よりもその場の環境音のボリュームを知覚する傾向があるように思う。例えばファン・デ・ヴェルデの『砲撃』よりも、ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』の方が私にとっては「うるさい」絵である。音のボリュームは対象との距離を含んだ情報であり、視点にかかわるものである。さらに絵画は、現実に起こった音(たとえば砲撃の音)とのがインデックス的なつながりがないために、特定の音を感じにくくしているのかもしれない(インデックス性のある写真の場合は、むしろ特定の音を感じるように思われる。)
★8
http://asaito.com/research/2014/05/post_15.php
★9
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51545/1/Kitamura_panel.pdf[PDF]
★10
古典ギリシャ文学者のジャスペル・スヴェンブロによれば、古代において読むことは、「自分の声を書かれた物のために(最終的には、書き手のために)役立てること」であった。したがって「読まれるということは、時間と空間がどれほど隔たっていようとも、相手の肉体に力を及ぼしていること」に他ならない。音読という仕事が、古代いおいてはしばしば奴隷に委ねられたのは、まさに読むという行為が自由を失う行為とされていたからである。「読んでもらうことに成功した時、書き手は他人の発声器官に働きかけ、それを意のままに用いている」(「アルカイック期と古典期のギリシャ」『読むことの歴史』所収)
★11
この「生理的な耳」と「文化的構築物としての耳」の区別は、木下さんも言及しているとおり、美術史における「視覚(vision)」と「視覚性(visuality)」の区別と似ていると思われるかもしれない。「視覚」は、身体的なメカニズムであるのに対し、「視覚性」とは社会的・歴史的に構成されるものだからだ。しかし、「文化的な構築物としての耳」は、音そのものの聞こえ方を構造化するものではない。それは単に、文化的実践によって作り上げられてきた音=意味の体系を聞き取るバーチャルな器官である。
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