BONUS

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未来へ向けた視点を提案する
エッセイ
障害者と考える身体
(7) 〈共有〉と〈共感〉
文・伊藤亜紗

前回のエッセイでは、障害のある人とそうでない人では、同じ目的を達成するにしても「やり方」が違うということについて論じた。障害がある場合には一般的なアプローチが通用せず、やり方をDIY的に作り出さなければならないことが多い。それはコストがかかるが、見方を変えれば、創造性を誘発する要因にもなりうる。

そのエッセイの末尾で、障害のある人とない人のあいだのコミュニケーションについて触れた。やり方が違う人どうしでは、同じことを伝えるのにも独特の「翻訳」が必要になったり、通常とは異なるポイントで「納得」を成立させたりしなければならなくなる。今回は、こうした身体的な条件の違いと言語コミュニケーションの方式の関係について考えることにする。

道具が内容になる

詩人ポール・ヴァレリーは、言語によるコミュニケーションを「類似を用いて差異を伝えること」だと定義している。シンプルなモデルに従えば、コミュニケーションには必ず「語り手」と「聞き手」がいる(語り手や聞き手が複数いる場合もありえるが、ここでは単純化して考える)。この二者の類似性と差異が、コミュニケーションの道具になり、内容になる、というわけだ。すなわちヴァレリーによれば、コミュニケーションとは、二人の人間が「ある程度共通していること(類似)」を使って、「語り手しか知らないこと(差異)」を伝えることである。

コミュニケーションの道具になる「類似」にはさまざまなレベルがあるだろう。まずは①共通の言語を話すこと。コミュニケーションが成立するためには、日本語なら日本語といった使用言語の使い方を知っていなければならない。もちろん、二人のあいだで共通の言語がない場合もある。そのような場合は、身振り手振りや絵などを使って、その場で言語を作る必要がある。

それから②共通の知識を持っていること。属する社会や世代によってどの程度の知識を共有しているかは異なるが、いずれにしても、何かを伝えるためには、相手の知っている知識に訴える他ない。たとえばヨーロッパ人に〈餃子〉を説明するための「中国風のラビオリ」という表現。ここでは「中国」や「ラビオリ」についての知識を使って、餃子という相手の知らないもの(差異)が伝えられている。知識は必ずしも記述できるわけではなく、ある対象についてのイメージや価値のようなものをも含んでいるだろう。

加えて、必ず必要なものではないが、しばしば利用される道具に③共通の記憶を持っていること、がある。「ついさっきした話」から「先週一緒にした散歩」まで、これもさまざまなレベルがあるが、共通の記憶に言及することは二人のあいだに親しみの感情を生み出す。記憶に言及されることで、時間のループが作られる。

ここまではいわゆる「一般論」の範疇だ。だが、障害のある方と話していると、実はもうひとつ、もっと単純で物理的な条件が暗黙のうちに前提されていることに気づく。すなわち④身体の類似性である。たとえば目の見えない人と食事に行って、運ばれてきた料理について「思ったより白っぽいね」とは言えない。見えない人と話す場合には、嗅覚や聴覚といったお互いの身体の共通部分はコミュニケーションの道具になるが、視覚は手がかりにならないのである。こうした身体的条件の差異は、健常者どうしでやりとりしているかぎり、顕在化しにくい(顕在化するのは、せいぜい「男にしか分からない話」を女性に説明するような場面くらいだろう)。しかし身体に障害のある人とかかわると、「道具として使える身体的機能」と「使えない身体機能」を分ける意識が働くため、この条件がはっきりと意識されるようになるのである。

興味深いのは、身体的条件の異なる人どうしがコミュニケーションする場合には、道具として使っていたことがむしろ伝えるべき内容になる、ということだ。たとえば、見える人どうしがやり取りする場合は、目の前にある食事の色は、それを使って何かを伝えるべき「道具」と認識される。しかし見える人と見えない人が関わる場合には、視覚に関する情報はすべて、視覚以外の情報を使って伝えるべき差異=内容になるのである。この「道具の内容化」とでも言うべき反転が、身体的条件の異なる人とコミュニケーションする際の最大の特徴である。ふだんどおりの道具では太刀打ちできない。だからDIY的な「工夫」が必要になるのだ。★1

身体の条件によって、何が「内容化」するかは異なるだろう。聞こえない人が相手なら音について、四肢が不自由な人が相手なら地面を歩くことについて、その二人のあいだの「類似性」を道具として、場合によってはその場で道具を作り出して、伝えることになる。もちろん健常者が常に話し手とは限らない。手話だけでコミュニケーションする感覚や、義足を装着する感覚については、健常者が障害のある人の身体を想像しながら理解することになる。★2

見えない人に「色」を伝える

社会のマジョリティである健常者にとって、この「道具の内容化」は、しばしば「道具を見直す作業」という意味あいをもっている。いままで「当たり前」だった道具が使えなくなる感覚。そもそも、自分がどんな道具を使っていたのかに気づくこともあるだろう。コミュニケーションが暗黙のうちに前提にしている言葉や知識といった道具を、もう一度検証しなおすこと。障害のある人と話すことは、健常者にとって、足元を掘り下げるようなスリリングな経験でもある。★3

見えない人に「色」を伝えるという典型的な場面を考えてみよう。通りをまがったところで、目の前に広がる空一面の夕焼けに遭遇したとする。その色について、相手にどう伝えるだろうか。

相手が目の見える人なら、そもそも色についてはダイレクトに語らないかもしれない。「わあ、きれいだね」とか「すごいね」といった具合に、夕焼けを指し示すだけで、たいていはその色について話題にしたことになるのだ。そう、まず前提として、見える人は色についてダイレクトには語らない。色は「見れば済むもの」になっているのだ(そして、場合によっては更なるコミュニケーションの「道具」として使われる)。このことを、わたしは見えない人に指摘されて初めて気がついた。月に一度行っている研究会で、全盲の参加者に問われたのである。「なぜ見える人は色についてはあまり語らないのか」。確かに、色のコントラストや調和について語ることはあっても、その色の色味については、その色を前にしてこと細かに分析することはほとんどない。目の前にあるものについては、二人のあいだに「差異」があると認識されない限り、伝えるべき内容とならないのである。

では百歩譲って、見える人が色を話題にしたとしよう。たとえば夕焼けを見た翌日にそれについて話す場合には、言葉を使ってその色味を相手に説明しなければならない。するとたいていの場合は「オレンジ寄りのピンク」や「水色から赤まで少しずつ変化していく」といった具合に、基本的な色の組み合わせや、色から色へのグラデーションの中の位置や範囲によって、当の色を示すことになるだろう。色は波長によって変化する連続量である。二人が共通して持っているこの物理法則についての知識を道具として前提として、伝えたい色を示す、というわけだ。

ところが、このやり方は目の見えない人には通じない。「オレンジ寄りのピンク」と言われても、目の見えない人には「ピンと来ない」のである。もちろん目の見えない人の多くは、色に三原色があり、それらが波長によって変化する連続量であることを知っている。色相環についての知識がある人もいる。だから知識として「オレンジ寄りのピンク」は分かる。しかし「納得」することはできないのである。

なぜ「オレンジ寄りのピンク」は通じないのか。それはこの表現が、実は物理法則ではなく個人的な経験にもとづいた説明の仕方だからである。見える人であれば、子供のころに絵の具などで色を混ぜた経験がある。その経験を通して、ある色と別の色を混ぜるとどのような色になるか、またそれが割合によってどう変わるか、視覚を通して知っている。「オレンジ寄りのピンク」という表現が通じるためには、ピンク色にオレンジ色を少しだけ混ぜた経験が必要であり、逆にそうした経験を持っていない人にとっては、「ふーん」「へえ」と納得できないまま受け止めるしかない表現なのだ。

見える人は「オレンジ寄りのピンク」が経験にもとづく表現だとは思っていない。それは物理法則であり、だれにでも通用すると考えている。しかし実際には、それは経験を利用した、したがって普遍的ではない表現なのである。先述のとおり、障害のある人とコミュニケーションする過程で、健常者はふだん当たり前につかっている「道具」を検証することになる。色の伝達は、その好例である。

色とその名前

色について見えない人が持っている認識は、本当に人によってさまざまだ。先天性の全盲の人であれば、色の理解は純粋に概念的なものになるが、中途失明の人であれば、見えていたときの経験によって、色の認識はまったく異なっている。しかし、その場合の「経験」というのがまたやっかいである。ただ見ればいいという話ではないのだ。 「色を経験した」と言えるためには、見たという視覚情報(感覚)をただキャッチするだけではだめである。視覚情報(感覚)に色の名前(概念)が組み合わされている必要があるのだ。つまり、世界のさまざまな色をただ見るだけでは色の経験とはいえず、そのそれぞれを「〈山吹色〉として」や「〈クリーム色〉として」見たのでなければ、それは色のデータバンクとして、つまり「道具」として蓄積されないのである。

たとえば研究会で、〈鈍い黄色〉と言われて理解できるかが話題になった。「山吹色、レモン色、クリーム色は分かる」という中途失明の方の意見はこうだった。「見えるときに、これが鈍めの黄色だよ、という会話はしてなかったから、見ていたと思うけど、その名前で呼んでない。〈鈍い黄色〉っていう名前をつけたファイルはないんだよね、たぶん。暗いとか、影になっている黄色とかは見たときに記憶としてあるから分かる。ひまわりが横の木の影を受けて黒っぽくなっているというのは、見たから分かる。でも〈鈍い黄色〉として見た色はないから、事細かに聞かないと、どんな色かは分からない。合っているかどうか確認ができない。見たときにそう思わなかったものは、正確には適合できない」。

興味深いのは、見えていたときに見た色にあとから名前をつけたり、あるいは頭の中で混ぜて新しい色を作ったり、といった操作はできない、ということである。色とは、視覚情報(感覚)と名前(概念)の両面を持っており、これらをセットにして初めて色を経験したことになるのだ。このような意味での「経験」がない場合には、大雑把なカテゴリーで色をとらえるしかない。「ジャンルとしては黄色だとは分かっても、自分の見た記憶のデータバンクとしてある色だったとしても、どの色と一緒かは分からない。だから共有できない。黄色のデータはあるけど、いわゆる定番の、黄色と言われたらこれ出す、みたいなものしかない」。

もちろん、見えない人の中にも「オレンジ寄りのピンク」式の表現が分かる人もいる。たとえばCGのデザイナーのようにスケール上で色を操作する仕事をしていた人は、数値によって色をイメージすることができる★4。しかし、さかのぼっての操作ができない以上、先天的に全盲の人や若年で失明した人のほとんどには、それでは通じないのである。

色を動かす

このように、「オレンジ寄りのピンク」という説明は、見えない人には「納得できない」表現である。ではどうすればいいか。何を道具とすれば、見えない人に色を伝えることができるのか。

研究会で出た意見は、「色を動かす」方法である。ある中途失明者がこう語ってくれた。「ぼくの予想としては、色が動き出さない限り、印象が作られない。〈黄〉〈赤〉〈青〉だと分からないけど、その人の印象や価値観が入ることで、色が動くので、なるほどそういう感じか、と思う」。言うまでもなく、見えない人は色そのものを感じることはできない。けれども、色を見て、その人の心がどのように動いたか、その動きはなぞることができる。たとえば「オレンジ寄りのピンク」をイメージすることはできないけど、「じわじわ胸に暖かさが広がるピンク」と言うときの「じわじわ胸に暖かさが広がる感じ」や、「ああ春だなあと実感する色」と言うときの「ああ春だなと実感する感じ」は見えない人でもわかる。あるいは究極的には、思いっきり感情を込めて「ものすごーくいい色」と言うだけもいいのかもしれない。つまり、ここでは「心の動き」が色を伝える道具になっているのである。

厳密にいえば、ここで伝えられているのは、「色そのもの」ではなく「色を見る経験」である。その人が、その色を見て、どのような気持ちになり、どのような連想をし、どのような衝動にかられたか。そうした一度きりの経験として色を伝えること。生き生きとした、生々しい出来事としての色を伝えること。それが「色を動かす」ということだろう。「本当の色の話をしていなくても、それで何となく分かってくる気がしちゃうんですよね。色に意味があるわけではなく、それを介して感情や価値観、熱などが付け加わると、色が動き出す。生きてくる。そうすると伝わる」。

それはいわば色を主観化するということであり、色を客観的なものと考える見える世界の通例とは異質なとらえ方である。見える人の中には、「それで色を伝えたことになるのか」と訝しがる人もいるだろう。確かに、見える人の一般的な理解では、色という客観的な視覚情報がまず土台としてあり、その上に、その効果として私の主観的な心の動きがのっかっている、というような構造になっている。この構造にもとづけば、土台となる視覚情報がなくては、上物の心の動きも存在しえない、ということになる。ところが、この「色を動かす」という方法は、いわばこの上物だけをとりだして、それを土台とみなすようなやり方である。そのようなやり方に対して見える人が違和感を覚えるとしたら、それはある意味では「自然な」反応かもしれない。

しかし、ふだん見える人が採用している伝え方と違うからといって、それを「伝わっていない」と決めつけるのはあまりに偏狭だろう。「伝わっていない」ように感じるのは、「伝える」方法が違うために、落としどころのようなものが違っているからではないのか。そもそも「伝わる」とはどういうことか。「伝わる」にはいくつかのパターンがあるのではないか。「色を動かす」方法に対する違和感は、こうした根本的な問いに私たちを立ちもどらせるもののように思われる。 「うん、分かった」と「あー、分かる分かる」 「伝わる」のいくつかのパターン。ここでは、研究会でもキーワードになった「共有」と「共感」の二つについて考えてみたいと思う。どちらもコミュニケーションにおいて差異を伝える方法だが、それらはいったいどのように違うのか。 「共有」は、たとえば「明日の待ち合わせ場所」を伝える場合のように、客観的な情報を伝達する場合だ。情報は量的・加算的で、聞き手はその情報を得ることによって情報が増えることになる。そこに主観的な感情を介入させる必要は必ずしもない。分かりやすくいえば、話を聞いた聞き手が「うん、分かった」と答えるような場合が「共有」である。

これに対して「共感」は、聞き手が「あー、分かる分かる」「なるほど、分かります」などと答える場合だ。共有は完了形だが、共感は現在形なのである。共感において聞き手は、話し手の心の動きに内側から同一化し、それを追体験する。共有は量的な変化だったが、共感は質的な変化である。情報が増えるというより、心全体の状態が変化するのである。その心の動きが自分にとっても自然なものと思われるとき、あるいは可能性として自分にもありえると思ったときに「伝わった」という納得感が生まれるのだ。

同じ内容が「共有」になることもあれば、「共感」になることもある。たとえば「来年は留学したい」という内容。学校の教務課にこれを届け出る場合なら、聞き手は、「はい、分かりました」と情報を「共有」するにすぎない。しかし親しい友人に大学への不満や留学の必要性といったことまで含めて語るのならば、友人は「うん、分かる分かる」なり「留学するなんて、全然分からない」といった具合に、仮に否定されたとしても「共感」の次元で反応してくれるだろう。その動機や決断に至るまでの感情の変化を、聞き手が追体験して、伝わったかどうかを言葉にしているのだ。

共有 共感
「分かった」 「分かる」
情報 心の動き
客観的 主観的
外に置く 内側から
量的 質的

この共有と共感の区別に従えば、「色を動かす」伝え方における色の理解は、純粋に共感的なものだ、ということができる。情報として、色のイメージを共有するわけではない。そもそも、見えない人の場合には、色を共有することはできない。その色についての視覚情報そのものを頭の中で思い描けているわけではない。けれども、話し手の心の動きをなぞり、その動きに「共感」することにで「分かる」に到達することはできる。つまり「共有ぬきの共感」なのである。

見える人の場合、色を言葉で説明する場合は、純粋な共感になることはありえない。あくまで、その色が視覚的にどのような色かという情報の共有を目指してコミュニケーションは進む。もちろん共感の次元がかかわることはありえるが、共有ぬきで共感が行われることはまずない。この違いが、人によっては「違和感」を生じさせる原因となる。けれどもそれは、どちらが一方より優れている、というわけではない。納得のポイントは違うけれど、どちらも「伝わって」いるのである。「違和感」はむしろ、見える人にとっての「自然」が相対化されることに起因する感情であると考えるべきであろう。


このように、同じ「色を伝える」にしても、見える人にとって自然な「伝わる」は「共有できたこと」を意味するのに対し、見えない人の場合の「伝わる」は「共感できたこと」を意味する。伝え方が違うから、納得のポイント、落としどころも違うのである。身体に障害がある人と関わることで、「伝わる」が決して一通りでないことを、別のいい方をすれば健常者にとって自然な「伝わる」だけが正解でないことを、私たちは認識することになる。繰り返しになるが、それは決して「伝わっていない」ということではない。単に落としどころが違うだけなのだ。

身体的条件がコミュニケーションに揺さぶりをかける。筆者はさまざまな媒体で、情報提供ベースの障害者との関わり(≒福祉)だけでなく、意味を共有するような活動が必要ではないか、と述べてきた。意味ベースの関わりを広め、深めていくためには、コミュニケーションをいわばマルチチャンネル化するような柔軟な意識が不可欠である。

★1

健常者どうしのコミュニケーションにおいても、実は道具の内容化はつねに起こっている。たとえば「花屋はマクドの隣です」といった表現から「関西出身なんですね」と話が展開するような場合だ(関東では「マック」、関西では「マクド」という略称が主流)。ただし、このような道具の内容化はあくまで結果論であり、コミュニケーションに先立って道具を吟味するようなものではない。

★2
身体的条件の顕在化は、障害のある人と関わる場合だけでなく、スポーツ選手のようにずばぬけて身体能力の高い人と話す場面でも起こる。身体能力が並外れて高い人の表現(たとえば野球選手の「手元で伸びる球」やタンデム自転車競技選手の「二人の重心を重ねる」など)は、同様の身体能力を持たない人には理解することが難しい。このような表現は、指導の現場で、選手の技術を導くために使用されるものであり、言葉を理解することを目指して身体能力が創発されている。技術修得の場面では、本論で論じた「道具の内容化」とは逆の「内容の道具化」のようなことが起こる。
★3
本文では触れていないが、厳密にいえば、コミュニケーションの道具となる身体の類似性は、①〜③のすべての基盤となっている。たとえば同じ町を歩いていても、障害のある人とそうでない人は経験が異なる。言語も知識も記憶も経験と結びついたものである以上、身体的条件によって左右される。
★4
ちなみに、研究会に参加している元CGデザイナーの方の場合は、HSV色空間という表記法を用いているという。これは色相(Hue)、彩度(Saturation Chroma)、明度(Value Lightness Brightness)の三つのパラメータで色を表すもので、たとえばHが50度と言われたら、黄色よりちょっと赤っぽい色だな(0度=赤、120度=緑、240度=青)と分かる。
エッセイ 伊藤亜紗
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(7) 〈共有〉と〈共感〉
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