共立女子大学文芸学部専任講師、NPO法人地域文化に関する情報とプロジェクト[recip]代表理事、NPO法人アートNPOリンク理事。専門は芸術社会学。単著に『芸術は社会を変えるか?』(青弓社、2011)など。
2014/12/07
2014/01/26 追記:吉澤さんへの木村からのコメントを加えました。
BONUSではこれまで「トヨタコレオグラフィーアワード」(「トヨタ」)のことを取り上げてきました。それは間違いなく「トヨタ」がダンスのアワードとして非常に重要な地位を占めているからですし、「ダンスの環境を考察する」というBONUSの「ジャーナリズム」の役割を考えると、「トヨタ」を無視することは全く出来ないと考えてきたからです。第二弾で審査委員の方々から選評を募りました。この選評を読むと、そこから触発される色々な論点が見え隠れしますが、想像していたよりも、この選評へのリアクションはそれほど多いものとはいい難いところがありました。このリアクションの乏しさも含めて、「トヨタ」をめぐってダンスの環境を考える作業をもう少し進めてみたいと思い、今回、社会学者の吉澤弥生さんにお話をうかがうことにしました。
吉澤さんは文化政策や芸術労働といったテーマに取り組んでおられます。『芸術は社会を変えるか? 文化生産の社会学からの接近』(青弓社)という著書がある吉澤さんは、芸術が社会のなかでどう生み出されているのかを社会学の見地から研究されています。例えば、ぼくがダンス作品の価値を評価する仕事をしているとするならば、吉澤さんの立場は作品というよりはそれを生み出す事業の価値を評価するところにあります。かねてから作品の批評だけしていても不十分なのではないか、作品がどのような環境の下で生まれたのかについての批評が必要なのではないかとぼくは思っていました。けれども、自分にその力がないことは分かっていたので、どうするべきかと思案し続けていました。吉澤さんの研究活動は、まさにそうしたぼくには出来ない欠落部分を埋めてくれるのものかもしれない、そんな思いから、吉澤さんにお願いして6つの質問を投げかけました。
一度お会いして、意見の交換をしましたが、基本的には、文章にまとめた質問に文章で答えていただきました。以下がその問答のすべてです。
木村覚
木村からの質問1:吉澤さんとダンスあるいは「トヨタ」との距離
これから幾つかの質問を吉澤さんにお渡ししたいのですが、その前に、吉澤さんとダンスとの関わりについて教えてもらえないでしょうか。また、「トヨタ」についてのご関心やお考えを、あらかじめ、私の質問をお読みになる前に一言もらえたらと思っております。ちなみに、私は、今回あえてダンスの関係者ではない方に「トヨタ」について考察してもらえないものかと思った末、吉澤さんにご依頼申し上げました。その「あえて」の理由は後の質問で触れております。
吉澤さんからのアンサー
まず私とダンスの関わりですが、あまり深くはありません。数年前からダンサーや振付家の方とお話をする機会が増え、知人友人も増えてきましたが、自ら公演に足を運ぶことは年に一度ほどです。
トヨタについては、2003年頃に「トヨタアートマネジメント講座」に参加したことがあり、それ以降芸術文化に目配りする企業なのだなという印象を持っています。トヨタのアワードについては数年前に知人と話す中で知り、若手ダンサーや振付家の登竜門的な位置づけのアワードなのだなという認識を持っている程度です。
木村からの質問2:「トヨタ」選評の感想
BONUSで募集した「トヨタ」選評について吉澤さんのご感想を聞かせてください。
吉澤さんからのアンサー
選評募集をひとつの「プロジェクト」とすることで、選評を集め公開するという一連のプロセスがたんなる手続きに終わることなく、ダンスの環境をよりよくしていくという目的に沿ったひとつの新しい場として機能していく可能性を感じました。
次に選評の内容についてですが、ほとんどの審査員の方がご自身なりの基準や指標を設けて審査を行なっていた(そしてそれを言語化している)ことが興味深いです。そしてこれらは実に多様で、たとえば一覧表の○×方式で表現できるようなものではないため、受賞者決定に向けた議論がどのように進んだのかも素朴に気になりました。
木村からの質問3:所属する内部を批評することの難しさについて
「トヨタ」選評を集めたのですが、これまでのところ、ネット上の反応は薄く、そのことは正直意外でした。もちろん、労をねぎらってくれる言葉や、画期的だと賛辞をもらうことは多々あったのですが、同時に、「選評」から見えてくる課題を鋭く論じた批評的な言葉は、いまのところネットのなかに見つけることが出来ません。まだそう決めつけるのは時期尚早かもしれませんが、この反応の薄さは気になります。Facebookなどを見ていると、批評の立場の人のなかに政治に対する反応や発言をとても熱心に行っている方もいるのですが、そうした方もこの件に関しては反応しません。つまり、遠い対象については盛んに論じられる一方で、目先の、自分がその内部に属しているサークルの事柄に関しては口が重くなってしまう、そういう現象があるように思うのです。こうした件について、吉澤さんの立場からはどのようなことが言えますか?
吉澤さんからのアンサー
所属する内部を批評するのは、確かに難しいと思います。顔の見える関係性や、お世話になった人々とのつながりの中で批評をすることは、相当の信頼関係がないと難しいでしょう。あるいは、批評することの先にある「目的」を共有したうえでないと、その関係性を失うようなリスクは犯せないだろうと思います。
ただ逆にいえば、批評は目的ではなく、ダンスの環境をよりよくするための手段であることが共有されれば、批評も根付いていくのではないでしょうか。木村さんのBONUSでの「選評」の試みは、まずその地固めの段階なのかもしれません。
私はこれまで主としてアートプロジェクトの現場で、文化事業の記録・調査・評価のあり方について考えてきました。文化事業評価も、本来は事業をよりよく改善していくための手段にすぎないのですが、どうしても評価自体が目的、つまり事業仕分けのようなものと同義にとらえられ、拒否反応が広がってしまうという現状があります(ちなみに、大阪の現代芸術事業の現場では、あまりに無策な行政に対し、現場から評価の重要性が唱えられ、実際に評価の試みも行なわれました。その声は政策に活かされていませんが)。ともあれ、評価や批評の本来の目的が共有されることがまず必要だと思います。
木村からの質問4:審査委員の選出など「トヨタ」の設計について
同じ質問を別の角度から申し上げます。「トヨタ」の審査委員(ゲスト審査委員はおいておくとして)は、特徴として劇場の支配人やディレクター、プロデューサーの類いの方が務めています。そうすると、この方が劇場公演の実権を握っているところがあると思うのですが(少なくとも各持ち場において)、そういう方たちが審査委員を務めることで引き起こされること、その可能性や問題点について、吉澤さんのお考えを聞かせて下さい。先に私の危惧を申し上げると、実権を握っている方たちには意見を言いにくいといった弊害は起きているように思うのです。少なくとも、ファイナリスト初め、振付家・ダンサーなどの作り手は、審査委員に対して自分の意見をあるいはときに不満を言いにくい仕組みになってしまっている可能性があります。あるいは、そうした方たちと仕事をシェアしている様ざまな職種・分野の人物たちも意見を言いにくい状況にあるのかもしれません。ただし、少なくとも批評の立場というのは、そうしたしがらみから超越していないと務まらないと思うのですが、先述したような「トヨタ」の選評めぐる議論の乏しさから鑑みるに、ひょっとしたら、そういう意味での批評家はダンスの周囲には存在しないのかもしれません。こう私が申し上げることの背景には、ダンスを取り巻くサークルがとても小さくてほとんど顔の見えている状態だという点があります。そのために、はっきりとした意見は言いにくいという雰囲気が生まれているのかもしれません。
吉澤さんからのアンサー
審査委員を劇場の支配人やディレクター、プロデューサーなどの専門家が務めること自体は、珍しくありませんね。そして2にも書きましたが、審査委員が同じサークルの人である以上、審査を受ける側が意見を言いにくいという状況は起こりうると思います。
ただ一般的な事業においても、説明責任や情報の透明性、そして事業評価の必要性についての認識は共有されつつありますから、まずは(1)トヨタの事業目的は何かを明らかにする。(2)それに合致する審査員として誰を選んだかの理由を明らかにする、ということがまず求められるのではないでしょうか。「誰が審査員を務めているか」は、トヨタの特長を示すものとして有効でしょうし、審査員もできるかぎり選評を公表するとよいのではないでしょうか。
木村からの質問5:(ダンスを囲む)民主的な社会を作るための道筋について
さて、その上でなのですが、私の気持ちの半分は、このもの言わぬ状況を打破してもの言える民主的な社会を作ろうよと言いたいところがあります。しかし、もう半分の気持ちとして、そうした公明正大な状況なるものを無邪気に求めるのは理想論過ぎて空論に閉じてしまう事柄かもしれないと考えてもいます。最終的な目標はもの言える民主的な社会だとして、そこへの道筋を具体的に考える必要があると思うのですが、それについて吉澤さんのご意見を聞かせてもらいたいと思っています。
吉澤さんからのアンサー
もの言わぬ状況を打破してもの言える状況を作ろう、というところにはとても共感します。ものを言いたい人たちというのは、たいてい言う機会がない人たちです。ものを言っていくということは、そのメッセージの内容だけでなく、言える空気を作る、社会を変えていくことにつながるので、木村さんはその口火を切った人としてこれからも言い続けていってほしいと、勝手ながら思います。
作品の批評は、どうしても叙情的というか、印象批評に頼らざるをえないところがあると思います。公演の場に立ち会った人が目の当たりにした躍動する身体、アウラのようなものを言語化しようとするわけですから、そうなってしまうのも致し方ないところはあります。
そこで、逆にプラグマティックな視点を持ち込んでみてはどうでしょうか。たとえば、文化政策の研究をしている大学院生などを巻き込んで、その作品の「プログラム」もしくは「事業」としての評価をしてみる。事業には、目標があり、計画があり、実施プロセスがあり、結果があります。その結果も、アウトプット、アウトカム、インパクトと、それぞれ異なるスパン・指標で測ります。どれも明確な事業目的と計画が示されてこそ計測できるものなので、性急に評価だけが求められないように注意が必要です。また、評価のためには指標を作ってデータを集めますが、とくに事業の長期的な波及効果を探るインパクト調査では、関係者への聞き取りや参与観察など、社会学や人類学の方法論も活きるのではないかと思います。そういう社会科学系の人たちを巻き込み、集められたデータを「エピソード評価」の一環で用いるのもいいかもしれません。
ともかく作品の批評をする人だけでなく、それをとりまく社会的な位相でさまざまな言説を増やしていけるとよいのではないでしょうか。おそらく、こうした作品そのものとは一見遠いところにある言葉で作品を語ることへの拒否反応はあると思いますが、これは作品と社会に関する新たな言説になり、ダンス批評の言説の層を厚くしていくと思います。
木村からの質問6:審査か祭りか、そもそも審査の基準へどう興味をわかせるか
アワードというものは、とくに「トヨタ」は、ダンスの分野においてとても重要な位置を占めています。アワードとは、(A)誰が優れているのかを決める審査であると同時に、(B)そうした審査を通してその場の盛り上がりを内外に示すお祭りでもあります。この(A)審査と(B)祭りのバランスをどう取っていくのか、この点がなかなか難しい、悩ましいところだろうと思います。(A)に(B)の要素が透けて見える。この作家を選ぶよりもあの作家を選ぶ方が集客が望める、場が盛り上がる、そういう(B)への意識が(A)を動かしている(かもしれない)。分かりません。そこまで踏み込んで審査委員に私はインタビューしていませんので(した方がいいかもしれませんが、明確な返答はもらえないような気がします)。これを避ける一つの方法は、(A)審査の(C)基準が話題に上ることです。(C)「基準」とはいいかえれば、ダンスの価値です。それが純粋に芸術的な価値の場合もあるでしょうし、もっと社会との関連性を含み込んだ価値の場合もあるでしょう。何れにしても、この(C)という価値の側面が問われずに(A)審査が進んでしまうことこそ((C)ぬきの(A)は現実的には可能だと思います)、ダンスという場が空洞化してしまうことの原因になってしまうのではないかと私は考えています。いいかえれば、審査の基準を問うことは、ダンスの価値を内外に発信することになるでしょうし、ダンスの場を活性化することにつながるはずです。誰が賞を取るかだけに話題が向かうのではなく、むしろこの審査の基準をめぐって多様な議論が起きたり、そこへと作家たちや観客たちの興味が集中したりすることこそ、ダンスの場を盛りあげる力になるのではないでしょうか。この点について、吉澤さんの知見からコメントをもらえないでしょうか。
吉澤さんからのアンサー
質問4のアンサーとしても書きましたが、「トヨタの事業目的を明らかにし、それに合致する審査員を選ぶ」というところ、そしてその「審査員の選評」、これらが公開されることが、結果的には木村さんの目指すダンスの場の活性化につながるのではないかと思います。「トヨタが示すダンスの価値」という点でも、何らかの作品に価値付けをするだけでなく、その審査員選定および審査をめぐって多様な議論を巻き起こし、結果としてダンスの場を活性化させる、というところまでをトヨタのアワードの目的にできればいいのではないでしょうか。