BONUS

現在のダンスの環境を考える
ジャーナリズム
田中真実さんと考える、
教育現場とダンスの接点で
いま起きていること

いま、教育現場に、ダンス作家(振付家・ダンサー)たちが頻繁に講師として招かれているようです。

「ようです」とはあいまいないい方ですが、そんな話をどこかで聞いたり、フライヤーに挟まっているワークショップの情報を眼にしたりして、そういうことが起きているんだー、となんとなく知っているという程度なんです、ぼくのこの分野への現状認識は。レヴェル低いです(汗)。でも、みなさんも、ダンスの公演を見たり振付家のワークショップに参加することはあっても、教育現場であの振付家がこのダンサーが活躍していることについては、それほど詳しくないかもしれませんよね(そんなこと、ないですかね)。

さて、そんなある日、具体的には去年の秋、第1回の「連結クリエイション」に参加してもらった岡田智代さんと話していて、たまたまその話題になったんです。最近、横浜の学校に呼ばれて行っているんだよ、と。「へー、どんな感じなのですか?」と聞くと、沢山、面白い話が出て来て、しかも、その学校が障害や病気を抱えた子供たちの集う場だったんですね、BONUSでは伊藤亜紗さんに「障害者と考える身体」という連載をしてきてもらっていることもありますから、がぜん興味がわいたわけです。

もっと知りたい! 障害や病をもつひとと、しかも子どもと、ダンスはどんな風に関わることができるの?
すると、岡田さんは田中真実さんを紹介してくださいました。
田中さんはSTスポット横浜のスタッフで、横浜市の学校とアーティストをつなぐお仕事をされています。
まずは、田中さんを通じていま起きていることを勉強させてもらおうと思いました。
BONUS「ジャーナリズム」コーナーの新しいテーマとして、「(障害をもつ子供の)教育現場とダンスの接点でいま起きていること」を取り上げていこうと思います。

まだまだこれからですけれど、ちょっと調べてみると、これは単なる「教育」の話ではないなと感じます。アーティストの活動にとって遠い場所かもしれないけれど、ひょっとしたら学校はアーティストのあり方に大きな刺激を与える場なのではないのか、と考えてみたくなります。あえて強調するならば「(障害をもつ子どもの)教育現場」は、ダンスをこれまでとは違う次元に引き上げる力を秘めているかもしれないのです。

以下に展開される文章は、田中さんが2015/1/26、27にSTスポットで行った勉強会を、田中さんと木村とで振り返ったものです。

1日目(1/26)は岡田智代さん、野上絹代さん、また仙台で活動されている西海石みかささんがご自身の体験を話してくださいました。岡田さんは野上さんをアシスタントに、浦舟特別支援学校にて1ヵ月4日間のワークショップを行いました。西海石みかささんは、仙台ですんぷちょという名のNPOアートワークショップを運営している方です。およそ1時間ずつ、2組のお話を聞きました。(ただし、西海石さんのお話は、紙幅の関係上今回は割愛いたします。)

2日目(1/27)は、ドゥイテニスコーツの2組がその日行った上菅田特別支援学校での取り組みを、岡田さん、野上さんが見学し、その後全員で今回の取り組みをベースに意見交換するという会でした。ちなみにドゥイは横浜で造形教室を営んでいる2人組、テニスコーツは音楽集団の2人組です。だから、2組は振付家やダンサーではありません。この勉強会は、ゆえにダンスに限定的なことばかりではなく、広く芸術表現が子供たちの学び舎とかかわる際にどんなことが起きているのかということについて意見を交わす場となりました。

この2日間の勉強会で交わされた言葉をもとに、田中さんと木村とで、あらためてこの勉強会を振り返りながら、教育現場とダンスの接点でいま起きていることを2人が思うままにひも解いてみようと思います。


勉強会1日目を振り返る

木村

田中さん、どうぞよろしくお願いします。

田中

こちらこそ、よろしくお願いします。

木村

この日は、岡田さんが野上さんをアシスタントに実施した横浜市立浦舟特別支援学校の事例をもとに対話が行われましたね。2人が行った4日間のワークショップでどんなことが実際に行われたのか、その具体的な実例の説明がありました。実例の詳細は(とても貴重な実例報告だと思うのですが)今回は割愛することにしまして、そこでとくに感じたこと、上手く行ったこと、難しいと思ったこと、あるいは諸々の可能性について、対話中に出て来たポイントを整理しながらまとめてみたいと思います。


事例1

学校名
横浜市立浦舟特別支援学校
アーティスト
岡田智代
アシスタント
野上絹代
実施領域
自立活動
実施概要
体験型、創作、小、中学生6名、2014.10-11 (90分×4日間)
学校からの希望
楽しく身体を動かすことで、安心して子供たちが自己を解放できるようにしたい。型のないものが苦手で、できないと嫌いになってしまう傾向のある子たちに取り組みを通して達成感を得られるようにしたい。

木村

岡田さんが取り組んだのは、どんな学校だったんですか?

田中

横浜の特別支援学校に出かけていきました。特別支援学校というのは、身体や知的などの障害がある子どもたちが通っている学校です。障害の特性で、なかなか学校に通うのが難しかったりするお子さんもいます。その中でも岡田さんと出かけた学校は病弱教育の特別支援学校になります。先生方からは、コミュニケーションの部分に課題を感じているというお話がありました。そこで、身体を動かすダンスを通して、ふだんとは違うアプローチでコミュニケーションをとることに挑戦しました。

木村

教室のアットホームな雰囲気がとてもよく伝わってくる報告だったんですけれど、まずぼくが面白いと思った話題は、ワークショップという場での先生の役割をめぐるものでした。例えば、こんな岡田さんの発言とか。

(1) 先生の役割

岡田 4回の中で必ず「自己紹介」のダンスをやりました。みんなから呼んでもらいたい名前を自分で作ってそれをみんなに紹介したり、自分のトレードマークとなるほんの小さな動き「トレードマークダンス」を作って披露し、みんなでそのダンスを実際にやってみるということをしました。子どもたちはたいてい普段から呼ばれている名前をあげていました、かるたが好きだから「いろは」と呼んでという子もなかにはいましたが、意外と先生たちの方がふざけるというか、自由に名前を変えていましたね。「「イイオトコ」と呼んでください」とか。(一同笑い)……

岡田 先生たちは意外と早く、子どもたちに手を差し伸べちゃうんですね。「ねえ、何が良いと思う?」と話しかけ、(「野菜か果物の皮が剥ける瞬間を踊ってみる」という課題が出たときに)「みかん?」「りんご?」と選ぶよう子供たちを促すんです。でも、私はなるべく自分の答えが出るまで待つ、ということを心がけました。全体を通して、答えが出てくるのを待つ、答えが出てこなくても、それは大したことではないという空気に気をつけました。……

岡田 先生たちのユーモアですごく場が和んでいったし、いつもこういう空気でやっているんだろうなって、すごく伝わって来て、それはそれで良いのですが、でも、安心感の中にいるということを生徒も先生たちも分かっている分、少しいつもと違うものを、一段上の何かを飛び越えていって欲しいと先生たちはおっしゃっていましたね。……

岡田 先生たちが、私見ですが、責任の軽減された場で自由にいてくれている感じがしました。先生自身が解放されているといいますか。そういうところが良かったと思います。


木村

振付家やダンサーは学校の中で講師として場を進めていくわけですけれど、そのかわり普段はその役割を担っている学校の先生たちは、そのとき「余り」の存在になるわけですよね。でも、その先生がワークショップを進める上ではとても大切な役割を担っているんですね。ファシリテーター役としてとても重要な仕事をされているようです。

田中

ここの先生方は子どもたちと同じ目線に立って、積極的に楽しんでくださっている様子がありました。もちろん、学校という場所で子どもたちのことを守るという役割が先生にはありますから、すべてを投げ打って楽しむわけにはいかないのですが、その場で起こっていることを肯定的にとらえてもらえるとその雰囲気が伝わって、子どもたちも安心して挑戦することができます。

木村

先生の役割は、こうしたワークシヨップのなかでは実は興味深いものになります。つまり、普段は子どもたちに指示を出す役であるのに、ここではその役を降りている。代わりに、アーティストがその日の先生なわけですが、この先生の不確かな立ち位置は、実はその場の雰囲気にとって大きなものを担ってもいるわけですよね。この話は後でも話題になりますが。

田中

普段の立ち位置とは違うので、戸惑われる場合もありますよね。こちらからどういうふうに関わってもらいたいかを先生に事前にお伝えしておくと何かとスムーズになることが多いです。

木村

教室に集う人たち全体が、その場の空気を構成しているところがあるわけですよね。デリケートな空間作りがとても大事なのだなと感じました。

さて、次に取り上げてみたいのは、講師としての振付家・ダンサーの役割です。野上さんがダンスという表現の特徴を「人の視線を気にすることが強い」と捉えながら子どもに「寄り添う」ことの大切さ難しさについて話してくれました。

(2) 子どもに寄り添う

野上 ダンスとか体を動かすって時に、必ずしも得意ではない子がいて、こうした学校でのワークショップのときにはとくに、やりたくて参加している子どもばかりではないということがあって、どれくらい苦手意識をもっている子に寄り添えるのかなというのが気がかりでした。多くの子どもたちは楽しそうにしていたんですけれど、一人どうしても苦手な子がいて……

岡田 1回しか来れなかったんだっけ。

田中 ワークショップというよりも、本人の状態もありますよね。私たちと接しているとき、つまり学校に来ているときは何にも問題がないように見えても、お家に帰ると難しい状態になってしまったり。


野上 ダンスってそう思うと、人の視線を気にするということが強い表現ジャンルだなと思うんですよね。動いている自分が他人からどう見られているかとか、あと作ったものをどう見せたいかとか。自己紹介ダンスのときに、人前に出るのは恥ずかしくてしょうがない子がいて、でも、その子が自分の自己紹介ダンスを凝って手話で作って、さらに次の回のときには「ちょっと変えても良いですか?」っていいに来たんですね。もうちょっと盛るんですよ。あ、そこは盛るんだ。(一同笑い)体を動かすのが好きな子と、何か作るのが好きな子は別で、だから体を動かすことと何かを作ることとをうまく取り混ぜてやっていくのが、良いように感じました。正解か失敗かをただ判定するような状態になっては、しょうがないですよね。そうなると結局苦手意識が取れないまま終わってしまう。あと、率先して先生たちが失敗してくれて、おかしなことをやってくれて、体も硬かったし、良い感じのポンコツさを見せてくれたので、それを岡田さんが面白がることでその場が良い雰囲気になって、「失敗はないんだよ」って、状態ができた。


田中

先生や保護者とは違うスタンスでその場にいることができるのが、外部からやってくる者の強みだと思っています。

木村

その意味では、ちょっとした非日常の場が出来て、先生も子供たちも気持ちが上がるわけですよね。そこに何を起こすかということがアーティストに問われてくるわけですね。野上さんの指摘している「ひとの視線を気にする」という点がダンスというジャンルの特徴だというのはぼくも思っていることです。言葉を使わずにひととコミュニケーションする際に、自分の体を曝して、ときに相手に身を委ねるという試練を課す。そこで「失敗はない」という雰囲気を作るのは、とても大切な気がします。ダンスというのはむしろ体操に近くて「成功」と「失敗」が問われるものと思われがちですから。先生とは異なるスタンスで子どもとどう寄り添うことが出来るか?実際はワークショップの多くは短期のものですから、その点で難しいところもあるでしょうが。

田中

自分が参加者だったら、ということを考えながら、アーティストの方とお話することが多いです。人前に立つ、誰かに見られる、はドキドキしますから。でもそこに立ったからできることもあって。「何をやってもいいんだよ」という雰囲気づくりは本当に難しくて大切なことだと思っています。

勉強会2日目を振り返る

木村

2日目はドゥイとテニスコーツによる横浜市立上菅田特別支援学校での取り組みを午前中に岡田さん野上さんが見学し、午後にSTスポットに集まって全員で意見交換したんですよね。

田中

上菅田特別支援学校は横浜市内で一番大きい特別支援学校で、肢体不自由の子どもたちが通っています。その中でも、重度重複と呼ばれる肢体不自由の他に知的や視覚、聴覚などの他の障害が重なっている子どもたちを対象とした取り組みでした。


事例2

学校名
上菅田特別支援学校
アーティスト
ドゥイ(小野亞斗子、轟岳)
テニスコーツ(さや、植野隆司)
実施概要
ワークシヨップ
合計4回
重度重複障害のある子供たち(高等部そうごうコース20名程度)が集まった中、10:00-11:20の間、ワークショップが行われた。



(3) 学校側とアーティスト側との関係性

さや 芸術というある意味ではわけの分からないものに(学校現場は)価値を見出しているんですかね、徐々には。

田中 そういう理解のある先生もいます。今日の打ち合わせも担当されていた若い先生も、分からないながら理解してくださっていると私は思っています。美術や音楽のことをよくよく知っているというタイプの方ではないと思いますが、こちらのことを汲み取っていろいろな配慮をしてくださっていました。ところで、教育や福祉の現場と芸術の取り組みとの間で一致するところも多くあると思うんですよね。「ここ良いよね」って思うポイントは両者とも近いんじゃないかと。△△ちゃんが今日はハイテンションになってゲラゲラ笑っていましたけれど、そういう彼女のことを喜びあえるというか、そうした一致点は見出せるんじゃないかな。芸術だから、教育だから、と分けるんじゃなくて。

木村 学校側とドゥイ+テニスコーツ側とで、今回の「目的」について、擦り合わせって行われたんですか?

小野亞斗子 細かい部分の共有はしてないです。

田中 最初に学校からの希望があり、それに答える形でアーティストを選定し、内容を相談していくという段階を踏んでいきました。大まかな目的は共有していて、細かいことについては、あえて決めないで進めていきました。4人の芸術的な活動が先生の側には見えていないので、どうして良いのかは分からないでしょうし、ドゥイ+テニスコーツさんの側は子どもたちの反応がどう出るか始める前は分からないので、狙いをあらかじめ作っていくのは難しいところはあって、ひとまず一回やってみて、その都度フィードバックをしながら進めていきました。

木村 学校側の先生たちに芸術への理解がもっと進んでいると良いのかもしれませんが、同時に芸術が何をどう取り組んでいるのかを、芸術を発信している側が学校側というか社会にもっと明瞭に伝える仕組みが必要なのかもしれませんね。ところで、「子どもが喜んでいる」ということがひとつのゴールに設定できるというお話があったと思うんですけれど、確かに喜んでいるならば良いというのも教育効果を計る一つの尺度かもしれないですが、でも数年後に何かの効果があらわれるというような教育の計り方というものもあると思うんですよね。教育の効果をどこに見るのかということは、様々ありうるのではないか。そのことを踏まえた上で、学校側も芸術に期待し、アーティスト側も教育の現場に入る際に教育効果への理解をもって、互いのことを考慮できたら良いのかなと思うんですが。

植野 普段から学校との交流がないと……。ぼくや恐らくぼくの友達も、普段からそういうこと考えて生きていないですよ。誘われてこういうことをやったことがきっかけとなって考えだす、という感じですね。まず場ですかね、場がないと。そんなにアーティストのすべてが社会との関わりについて考えているわけではないですよね。ぼくや仲間たちはみんな一生懸命自分たちの表現に向かっているわけで、何かきっかけがないと思考ははじまらない。

木村 「社会活動するぞー」と思い立って芸術活動するわけではないですよね、普通は。

植野 正反対で、たいていなかば反社会的な状態から始める、みたいなものですよね。(一同爆笑)

木村 でも、だから、気づくとこういう(学校という)場にそういうアーティストがいる、ということが面白いですよね。

植野 これはこれで特殊ですけれど、もっと両者が交錯する場というものがあれば、多分日本ってあんまりない方だと思うんですよね、もしくはオープンではないというか、それが少しオープンになってお互いのひとが互いの方に行き来するひとが増えれば、お互いに考えたりし始めるんでしょうけどね。

木村 こういう活動からアーティストはどういうものを得るんでしょうか?

植野 自分のためかなって思う。普段の活動とはフィードバックが違うんで、それが良いか悪いかは分かりませんが、終わった後で考えることとかは相当違うから。

木村 それは良いことだし、すごいことですよね。いままでなかった回路がアーティストの中に生まれるわけですから。

さや 音遊びの会に参加したときに、歌が強い子がいて。ずっと歌を歌っている子がいて、その歌を実際に録音してもらったんですね。それを曲にしてCDに入れたことがあります。

木村 具体的なフィードバックがあったってことですね。

さや そうそう。共作というかたちで収録させてもらい、作詞のクレジットにもお名前を入れさせてもらったんですけれど、そうすることで「この子は天才だ」と口で言ってもなかなか信じてもらえない方にも信じてもらったり、自信にしてもらうカタチへと発展したと思います。


当日STに集った勉強会メンバー

司会 田中真実
テニスコーツ さや 植野隆司
ドゥイ 小野亞斗子 轟岳
見学者 岡田智代 野上絹代
聞き手 木村覚

木村

学校側とアーティスト側とで目的の設定・共有するという点は、一番難しいけれど大切なはずで、しかし、ひょっとしたらないがしろにされがちなところがあるのかなと想像してしまいました。田中さんが今回以外で関わった経験でいうと、どんなことがありましたか?

田中

いつも考えているのは、どうやったら自由に中身を作れるかということです。いろいろやる前にガチガチに決めてしまっても、予期せぬ事態が起こります。例えば、夏に床が冷たくて気持ちがいいから寝転んでしまうとか。特に子どもたちは、いわゆる規範に縛られずにいるため、そういったことは起こりやすいと感じています。一つ一つは整合性があるんですけどね。そういう面はアーティストにも通じることかもしれませんね。

木村

一つの尺度で見れば「いまここでやってはならないこと」かもしれませんが、なるほど一見すると不可解な子供たちの行動も、よく見れば「一つ一つは整合性」があるということ、ありますよね。障害や病気があったりする子供たちに対しては、一つの尺度で縛らないという体勢がもともとある分、その場が柔軟になり易いという利点があるように想像しました。むしろ普通の学校の普通の教室の方が、一つの尺度で子供たちを縛りがちかもしれませんね。

田中

黒板の文字は読めるとか、座っていられるとか、給食を一人で食べられるとか、ある程度のことはできる、という前提や共有事項があるので、ひとくくりになっていることもあるかもしれません。でも本当は、健常者であろうと、障害者であろうと、体はそれぞれ別の物ですし、一人として同じ人はいないのですから、ひとくくりにしてしまうのは、ちょっと乱暴かなと思っています。黒板の見え方だって、集中できる時間だって、食べるスピードだって、違いますから。ただ、普段の生活の中では、すべてに対応することは難しいと思います。だからこそ、アーティストのようなそれぞれの人の違いを面白がってくれるような人が普通の学校にでかけていくことが、より求められているんじゃないかと、特別支援学校に行けば行くほど、思ってしまいます。

木村

あとぼくの立場からすると、こういうワークショップの機会がアーティストの意識や創作の姿勢に影響を与えるというのは、興味深いです。もともとは反社会的な部分ももっていたかもしれないアーティストに豊かなフィードバックがあるとしたら、こうした活動は芸術に寄与すると評価すべきものかもしれません。

田中

学校などで子どもたちと触れたから急に何かが変わっていくということはないと思うのですが、反応の早さ、正確さ、的確さ、のようなものは、芸術活動を行う上で、大事なことかなと思っています。いわゆる公演よりも、ダイレクトに返ってくることが特徴かもしれません。

(4) 子どもの反応を増幅する先生の役割

田中 重度重複障害のある子どもたちの場合では、反応がとても微細であることが多いんです。そういうときに、先生が子どもたちの微細な表現を増幅してくれることがあります。先生が反応の増幅器の役を果たしてくれていましたよね。先生が「喜んでます!」といってくれているので、いまこの子は喜んでいるんだ、ということになる。そこは増幅しなくてもよいのかなと思うこともあるにはあるんですけれど、でも、コミュニケーションというのはどこかいつでも誤解を含んだところがあるから、そうした反応の増幅でコミュニケーションが進むということはあるでしょうし、それはよい面として考えられるのではないでしょうか。

植野 助かるときがありますよね。この子のこの反応はこうなんだって。どこか心の隅っこで「本当かな?」というのは残るんだけれど。

田中 全く言葉を解さないお子さんがいて会話しててくださいといわれて困ったこともありますが、でもそういうときに、対話だけがコミュニケーションではない、反応は乏しいけれども、それでもこちらが何かを語りかける、反応を仮定したり推理したりするところで起きるコミュニケーションもあると思うんです。そういうことは、日常でもあると思うんですね。



木村

その場のファシリテーターとしての先生という話ですが、とても具体的な先生=「増幅器」というたとえが出てきて興味深いです。

田中

常日頃から子どもたちと接しているから分かること、というのがあります。外部から非日常の刺激が来ることで、うまく違う面を見つけてもらえると嬉しい気持ちになりますね。

木村

植野さんが敏感に「心の隅っこ」では「本当かな?」と思う、ということもおっしゃっています。そうした疑問に思う敏感さも大切ですが、「本当かな?」と思いつつも、手がかりを探しながら、慎重に、不確かな状態を前に進めていることが求められますよね。多様な反応に気づくようになること、というべきかな?

田中

誤解を恐れずに触れてゆくことは、失敗を恐れない、何でもいいんだよ、という状況をアーティスト自身が引き受けてゆくことかもしれません。コミュニケーションだって、たくさんの失敗を繰り返したとしても成立するかどうか怪しいものですから。慎重に、敏感に、臆しないことが難しいけど、大切なんでしょうね。

(5) 教育の目標→子供の反応について→場の全体的な雰囲気

さや ひとつ前の話に戻るんだけれど、学校側とアーティスト側で事前に共通の目標を立てるかどうかという話なんだけれど、具体的には(目標というのは)子供の反応なのかなと。もし「何をいっているのかこの人は?」と学校側の人たちから私たちのことを思われたとしても、でも、実際にプログラムやってみて、子供に反応があったら、その説得力っていうのがあると思う。そこがひとつ大きな焦点になる、コミュニケーションを溶かしちゃうものになると思う。

木村 それは共通の目的を「子供たちの反応」にするということなのかな?

さや アーティスト側が提案することってやってみないと分からないことだらけじゃないですか。それが子供を通して反応が出て来たときの説得力は、事前に思った以上のことを示してくれるものになる。反応が悪い子でも、先生が説明してくれて「ああ、喜んでいますよ」とか教えてもらえると、ああこうすれば良いんだなと、アーティスト側も学校側もやるべきことを考える共通の指標が生まれるように思うんです。

木村 いまのお話にあてはまる話ではないという前提で聞いて欲しいのですが、悪い例を想像すると、子供の反応の良い手段をアーティスト側も学校側もさがしてしまう、そういうことも起きているかもしれませんね。分かりやすく反応が出るものを求めてしまうみたいなね。

田中 ずっと子ども向けアニメの曲を使って何かやるみたいなことですよね。

木村 少し後になってから子供の中に反応が起きても良いのではないかと考え方は、そういう短絡的なところに落ちないという意味で大事な考え方のように思うんです。いまここでの反応にあまり強く一喜一憂するのは、少し心配な気持ちにもなります。一才児が笑ったから直接こんな教育効果がありますとかって、そんな簡単な話じゃないですよね。でも、その笑いに期待しながら、学校側とアーティスト側で、気持ちをシェアすることが大事なように感じます。

田中 先生たちも分からないまま試行錯誤しているんだと思うんです、そのなかでアーティストが行なったことで子どもたちから強い反応があると、ああこういう反応するんだと、アーティストだけではなく先生たちも知るんだと思うんですね。そうした発見を続けながら進んでいくものという気がします。

植野 今日初めて来た子で、目も見えない、耳も聞こえない、ほとんど反応のない子を前にして、手を触ったりして反応を見てたんですよね。何かこう、すごいはじめて感じることがありましたね。いまこの手を握っている子は、どこまで分かっているか分からないけど、握っている手でぼくの存在を感じてるかどうかも分からないじゃないですか。これなんだろうなと思って。

さや 感じているんじゃない?

植野 て思いたいけれど、でも、反応はないわけじゃない? あの子あのクラスでは究極的じゃないですか?

田中 反応という意味ではそうかもしれないですね。ただ、何かを認識したり認知したりする方法って、実はたくさんあるんで、触った感触がただ触った感触としてだけ伝わっているわけではないと思うんです。自分が想像する以上にもっとすごい無限な世界がその人の中にあるかもしれないなと思ったりします。私たちが思うより大きな宇宙があるかもしれないです。

植野 かも、しれない、ですよね。

田中 そこを信じたくなりますよね。

植野 ぼくの方が特別なものに触れさせてもらっているような気持ちに一瞬なったんです。

田中 一人一人の存在というものはとても大きいものなんだろうなと思うことはとても多いです。いわゆる外に発露するわけではないかもしれないけれど、その人が一人そこに存在するということがすごい自分とって重大な影響を及ぼしているって、また逆に何かが欠けてしまうということはとても大きなことなのではないかと思います。神秘的な話になってしまうかもしれないのですが……

岡田 お客さんが家にくると、家の雰囲気が変わったりする、というのと同じように、普段接しているのとは違う人がやって来て、普段先生が接しているのとは違う仕方で子供に接するというのが、とても大事なことなのじゃないかなと思うんです。

さや 個々のことも大事だけど全体の空気ってとても大きいですよね。

木村 人1人増えるだけで雰囲気が変わるというのは、それは単純に感覚(五感)の話ではないですよね。

田中 だから「つまんない」みたいな気分を外に出している先生って、困るんですよね。自分は陰にいるようでいて、意外と影響力もっているんですよね。


木村

どう目的を先生とアーティストで構築するかという話題が「子供の反応」をたよりに成果を考えようという話へ転がり、さらに「反応」という考えが拡張されて一人一人が場の雰囲気を作るというテーマへと進んでいきました。

田中

私たち制作やコーディネーター側もその雰囲気づくりに大きく影響しているんですよね。黒子に徹しているつもりですが、黒子は黒子として存在しているというか。私自身、目立たないように、見つからないように、という存在の仕方をしていた時もありますが、ある時から存在は消せないよな、と思うようになりました。だって、いるんだから。

木村

後半は「場の中の大人問題」ですね。子供とともに居る場で先生であれ親であれ大人が果たす役割は結構大きいぞと。雰囲気壊していることもあるぞと。

田中

それと見学者もですね。自分はやらないから、見ているだけだから、ということにはならないんですよね。

木村

そうか、そういう点というのは、あまり語られていないことかもしれません。教室というものは、そこに集う多くの人間たちのバランスで成り立っているとてもデリケートな場であると、考えることができます。その場自体を意識するということですね。もっといえば、場の雰囲気を感じるということ、それに敏感になって、互いが互いの気配を感じられるようになることが、ワークショップという場で起きていることのなかでとても大切な価値ある出来事であると思いました。

田中

ないことにしない、あるものはある、と共有するところからはじまるのかもしません。

木村

それと、ワークショップのデリカシー(繊細さ)という話の延長にあることなのですが、ワークショップはこうして観客の意識を変えることがあるということが、実際の公演にも反映されるとよいなと思いました。観客が変わることが、芸術表現の残された未開拓の地のように思うこともあるんです。芸術表現は出尽くしたみたいないわれ方もしますが、観客へのアプローチはまだもっと多様なかたちがあり得ると思うんです。そして、この点に関連して、こんな対話もありました。

(6) 観客を能動的な参加者にしていくワークショップというものについて


木村 みなさんに聞きたいんですけれど、今回みたいな機会がないと思いつかない演奏や上演の形態というものがあるのではないでしょうか? あるいは昨日と今日お話を聞いていて、ワークショップがもつ豊かさというものがあると思ったんですね、そういう形態が発展して公演のあり方を変えるということはないのでしょうか。いろいろな可能性がいっぱい開かれる、密度の濃い場ですよね、ワークショップって。参加する子供たちは単なる芸術の観客ではなく実際に能動的に体を動かすので、そこでは得るものがたくさんあると思うんです。でも、いざ公演という形態の中では、観客はじっとしていなければならなくて、公演という形態がもつ表現の洗練というものは無視できないけれど、でも、それを貫くことで芸術が失う部分もあるのではないでしょうか。

植野 ワークショップって、放っておいても参加する人は参加するけれど、放っておいたら、参加しないタイプの人は参加しないですよね。ぼくはフライヤー見てもワークショップに参加しない側の人間なので、ワークショップに能動的に行く人というのは限られていると思うんですけれど。行かない人が行ったら得るものがあると気づくきっかけがあると良いと思うんですけれど。

木村 気づくきっかけがあると良いですよね。あと、ワークショップって、子どもたちだけではなくて大人にこそ開かれているべきもののように植野さんのいまのお話から思いました。ぼくは大学教員ですが、学生というより教員たちとワークショップしたら、心の変化が起きて、仕事がしやすくなるような気がしました。大人にこそみなさんのワークショップは効果があるような気がしています。でも、いまの日本は、そういうプログラムが充分にあるという環境にはないですよね。もともと参加したい意欲のある能動的な人には門戸が開かれているかもしれないですけれども。

植野 それは、ひょっとしたら大友良英さんがライブでやっている、楽器を持ち込んで勝手に演奏して良いってやり方って、そうはいっていないけれどワークショップの形態が入っているのかもしれないですよね。それだと大友さん好きだってお客さんが、さらに自分でも楽器弾いていいのかと思って(ワークショップだなんて思わず)喜んでやって来るでしょうね。大友さんに限らずきっとそういうことやっている人は、いまいろいろいるんじゃないでしょうかね。


木村

さきほどもちょっと話題になりましたが、大友良英さんの例などがそうなのですが、芸術表現を拡張する場として教育現場があるのかもしれないと、ぼくはこのような対話のなかで思っていました。ワークショップの豊かさに気づくことで、芸術家に新しい公演形態を創造させるなどということが起きると良いと思います。あとは、子供よりも大人にこそ、芸術のワークショップは有効かもしれないですよね。普段、心を上手く解放できずにいるのは、子どもばかりではなく大人もそうなのですから!

田中

子どもたちに向けての取組みが多いのですが、やればやるほど、芸術というものはすべての年代にとって、成長過程の中でそれぞれにもう少し身近にあっても良いものではないかなという思いが強くなります。隣になければ、なかなか行こうとか、触れてみようとか、思えないと思うので。

木村

「生涯学習」などといわれる取り組みがありますね。そうしたもののなかに、単なるお稽古ごとではない形のダンスが講座としてあっても良いかもしれません。大人の方が、資格が取れるとか、何か分かりやすいゴールを求めがちかもしれませんが、そうではない、一種の解放の場としてのダンスというものに大人も触れられると良いですよね。また、そういうものとしてダンスの価値が存在しているのだということを、もっと社会に説明できるような力をぼくたちはつけないといけないのかもしれません。

田中

そのためには、文化施設の側も力をつけていきたいと思っています。学校や地域に出て行く機会は増えています。たくさん面白いことも生まれています。でも、それはきっと劇場という場所があるからできることで、アーティストとともにたくさんの失敗を繰り返し、たくさん遊んでいくことができるような環境をつくっていきたいと思っています。

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