2014/08/19
ソロのダンサーであり、最近はおやつテーブルなどでも活動する岡田智代。彼女は、ぼくにとっては「しぐさ」のダンスのひとだ。「しぐさ」のダンスの代表的な存在にピナ・バウシュがいる。岡田さん以外にも日常的な「しぐさ」を大切にして、それをダンスへと変換・昇華させるコンテンポラリーダンスの振付家は少なくない。けれども、そうしたなかで岡田さんはぼくにとって特異な存在だ。さりげない、些細な動作にドキッとさせられる、殊更に「セクシー」というわけではないのだけれど、その振りはじわっと悲しいような切ないような気持ちにさせられる。そうしてそこに「人間」があらわれる。
岡田さんのそんな「ダンス」は、岡田さんの身体でなくては表現できないのか? ダンスとダンサーは切り離せないと言われるけれど、本当にそうなのか?あともうひとつ、それは繊細すぎて「映像」には残らないものなのか? 映像は岡田さんの振り付けをどう捉えるのか?
ぼくはそんな思いを抱きつつ、今回岡田さんに〈連結クリエイション〉のオファーをした。そして岡田さんは快快の野上絹代さんをダンサーに招いて、またやはり快快の加藤和也さんをサポーターにつけて、映像制作のミーティングを始めている。
以下の映像は、8/4に行われたミーティングの模様を収めたものだ。ここには、振付家/ダンサーのディレンマが記録されている。ダンスは振り付けできるのか否か? ダンスは誰かに振り付けられて踊られるものと考えられるけれども、究極的には誰かのダンスを別の誰かが踊ることは不可能かもしれない。これは、視点を変えれば、日本人以外に舞踏は踊れるのか? とか、ある地域の伝統的なダンスを別の地域で生まれ暮らした者が踊れるのか? とか、案外と本質的で、今日的な問いへと通ずるところがありそうだ。さて、岡田さんがこのディレンマに頭を抱えるようにしているさなか、野上さんが満を持して放った言葉が、実に面白かった。その言葉は「ものまね」。
木村覚