2014/09/26
0 制作記をはじめるまえに
岡田智代さんに今回〈連結クリエイション〉に参加してもらいたいと思ったのは、ひとつに、「岡田さんのダンスは岡田さんにしか踊れないのか?」という疑問を解決したいから、ということがあった。
岡田さんのダンスは、ソロの場合が多く、そのソロというのが実に繊細できめ細かく作られている。しかし、ことさら「繊細さ」を売りにする類いのお仕事とはほど遠く、岡田さんは繊細な振りを実にさらっと踊る。動きにニュアンスがあって、しかしそのニュアンスがひとつの意味へと集約されぬまま多様な読みを誘発しながら漂っている、そんなダンスを、ちゃんと必要なバランスを保ったまま踊るのだ。この岡田ダンスを、果たして、岡田さんの体から切り離し、別の誰かが踊ることは可能なのか?
この疑問は、でも、岡田さんのダンスに限定されるわけではない。むしろダンスはダンサーとは切り離せず、故にダンスとはそのダンサー一代限りのものという考えは、一般に流布したものだろう。マイケル・ジャクソンのダンスはマイケル以外の誰が踊れるというのだろう。この絶望は、果たして舞踏を日本人以外の舞踏手が踊れるのか?といった問いとも繋がるだろうし、ある村の伝統的な踊りを、その土地の者ではない誰かが踊るときのなんとなく白々しい感じというのも関連があるのかもしれない。もっといえば、ダンスはアーカイヴできるのかという問い、いや、それ以上にダンスをアーカイヴする意味はあるのかという疑いとも通底することだろう。ダンスは生のものであり、1回限りのものであり、故にあるときにダンスには死が訪れるし、だからこそはかなくそして愛しいものである、そんな思いをひとに抱かせもするのだろう。
ぼくのなかにそんな考えに引かれる気持ちがあるのは事実だ。ダンスの上演には「ダンスを見に行く」という以上に「ダンサーに会いにいく」というニュアンスが強くなることもある(晩年の大野一雄の公演には、そういう空気が濃厚だった)。ある劇作家と話をしていたときに、演劇の場合、劇作家同士で相手の作品の話を平気でするし批判が含まれることもあるのだけれど、ダンス作家同士は相手の作品の話をしないようだがなぜかという話題になった。そこでの結論は、ダンス作品の場合、批評が作品のではなく作家の批評と受け取られがちだからではないか、いいかえれば、作品の批判が人格批判と作家に受け取られてしまう傾向があるからではないかというものだった。ダンスはダンサーと切り離せない。その事態はややもすれば、ダンスではなくダンサーに会う、ダンサーを見ることなり、それはひょっとしたら、ダンスを見ることを遠ざけてしまうことになりかねないのではないか。
でも、頭を切り替えてみれば、別の見方も生まれそうだ。マイケルの死後も(たとえば、ジャスティン・ティンバーレイクの「ラヴ・ネヴァー・フェルト・ソー・グッド」を見てみると分かるように)、マイケルのダンスは誰かによって踊られているし、舞踏を踊りたがる外国人は相変わらず絶えないし、バレエが西洋人のものだとすれば日本人がバレエ界で活躍するのは奇妙な事態というべきかもしれないが、そんな潔癖主義が日本あるいは海外のバレエ界を襲っている事実はないようだ。むしろダンスは誰かに習うものだったり、誰かが踊ったものを真似るものだったり、それがあっという間に流行って、全員で踊るものになったりするものだ。
ダンスは1回限りでもあり、ダンスは反復するものでもある。ダンスは誰かのものであり、また誰のものでもある。その当たり前の地点から、ダンスの制作がはじめられないか?実のところは衝動的にお誘いメールを書いたのが事実なのだけれど、岡田さんに今回の件で最初に会って話したことは、頭を整理してみれば、そんな提案だったのかもしれない。
1 区民センターでのリハーサル(2014/8/25)
ダンスを伝える(けど、最後は消してしまう)言葉たち
さて、8/4のミーティングの後、ぼくは再び「チームよーとも」のミーティング(踊りながら進められたので正確に言えばリハーサル)に参加した。世田谷の区民センターにて、14:00-16:30。8/4の時点では、野上絹代さんに「手」のダンスを作ってそれを中心にしたダンスを踊ってもらいたいと話していた岡田さんは、その日、手の振りは確かにあるものの、もっと沢山の要素が詰まったダンスを用意していた。およそ1分半くらいのそのダンスは、やはりとても繊細で、微妙なニュアンスが微妙なまま次々と繋がってゆくものだった。岡田さんがまず2度ほど踊ると、今度は野上さんがそれを見ただけで「ものまね」してみる。
この日、ぼくが一番驚いたのは、8/4のミーティングのときには「私はものまねが上手だ」と言っていた野上さんが、岡田ダンスのものまねに手こずっているという事実だった。野上さんの「上手だ」の言葉を嘘だなんて思ってはいない。とはいえ、「やっぱり岡田ダンスは他人には踊れないものなのだ」なんて結論も軽率に下したくはない。どこに岡田ダンスの肝があるのか?野上さんもそれが何なのかを踊りながら探ってゆき、岡田さんも野上さんの動きと自分の動きを比較しながら、何がないのかを探ってゆく。
この時間がとても豊かだった。いや、展開しているのは「振付家がダンサーに振り付けを与える」という、どこにでもある光景だといえばそう。この特別じゃないプロセスに、とても濃密な何かがあった。岡田さんが自分の動きのエッセンスを言葉にしていく。「やわらかく、しっかり、立つ」など。こうした言葉を口にしながら、ときおり岡田さんは、「ひとに自分のダンスを踊ってもらう経験なんてそんなにないから、ひとに踊りを説明しようとして、言葉を選ぶのがとても新鮮だ」なんてことを口にしていた。自分のダンスを言葉で説明する。この言葉は何だろう。ダンスそのものではないにしてもダンスを伝える何かだ。ダンサーをある一定の方向へと導きたい思いが生む言葉だ。だからといって、その言葉自体はダンスではない。最後は消すために鉛筆で描いた輪郭線みたいなものだ。けれども、その補助線もダンスの豊かな副産物のように思えてならない。これを消すのはなぜだろう。これを消さないとダンスはどうなるのだろう!
全体が分からないと踊れない
ところで、なぜ野上さんは「ものまね」に苦心したのか?動画にも出て来るのだけれど、次の言葉にそれはよくあらわれている。
「私が気になったのは、一つ一つの仕草もそうなんですけれど、私結構おっきいところから見ていくタイプなので、全体としてリズムとか、きっかけってあるじゃないですか、つぎの動きにいくきっかけってあるじゃないですか、それって何なんだろうな?って」(映像「BONUS 岡田智代リハーサル 2014.8.25」の0:55あたりをご覧下さい)
野上さんが苦心した理由の一つは、岡田さんがこの日用意してきた振りにあった。その内容というよりも、それが最後まで完成したヴァージョンではなかったこと、あるいは音楽をつけることになっているのだけれど、その音楽がまだついていないことにあった。この翌週に再度のリハーサルを行ったときに、野上さんは見違えるほどの踊りを見せるのだけれど、その理由はやはりその日に全体が分かる振り付けを岡田さんが披露したことにあった。(その日のことは後述します。)
さて、なぜ全体が見えないと踊れないのだろう。ひとつにそれは、一つ一つのパーツが全体として何を構成するものであるのかが分からないとパーツの意味が見えてこないから、ということがあげられる。バレエやポップな振り付けの場合、動きやポーズの一つ一つに名前が与えられていて、それを組み合わせて一つの全体とする。そうしたダンスの場合は、名前のついたパーツを一つ一つ取り出して練習することも可能だ。けれども、岡田さんのダンスの場合、そういう仕方と同じように、ただ「やわらかく、しっかり、立つ」ことが野上さんには難しかったわけだ。そのことからもう一つの理由を考えたくなる。それは、野上さんが岡田さんのダンスを全体を一つのものとして捉えようとしたということだ。全体を統轄する何か一つのエッセンスがあって、それがこの日にはよく分からなかった。それは野上さんが「岡田智代になる」ということなのかもしれない。次のシーンを見てもらいたい。
「いつ息すってんのかなって……、わかんなかったっす」(映像「BONUS 岡田智代リハーサル 2014.8.25」6:10あたりをご覧下さい。)
ロボットが誰かひとのダンスをトレースするのならば、動きを精密にキャプチャーしていくだろうし、ロボット制作上の目標は、その精密さが見る者に自ずと、ロボットがトレースする当の「そのひと」を意識させるというところに設定されることだろう。(手塚夏子のプライベートトレースも基本的にはその精密なトレースの徹底を目指した)けれども、野上さんは自分が動くためには「岡田智代になる」ことが必要だと考えた。だから、一つの振りのなかで、岡田さんがどんな風に動くのか以上にどんな風に呼吸をするのかに注目したのだ。野上さんの模索は続く。たとえば、岡田さんは「お母さんロボ」(映像の12:50あたり)だという読み込みや岡田さんの動きは「一個一個が重たい」(映像の13:57あたり)という読み込みは、その模索が、どんな振り付けなのかというよりも、ダンサーがどんな存在なのかに向かっていることを示唆している。
2 区民センターでのリハーサル(2014/9/2)
「全体」があらわれて、「智代ダンス」が掴まえられた
1週間後に、ぼくらは同じ区民センターで再会した。ぼくは少し遅れて合流したのだけれど(今回はFAIFAI でも活動する加藤和也さんも参加)、ぼくが来てすぐにまず岡田さんが実演してくれたフル・ヴァージョンを見て、とても驚いた。野上さんが求めていた全体がそこにはあった。3分半ほどの全体は、歩くことを中心としたダンス、しかし、多くのひとはこれを「ダンス」とは思わずに「仕草の集積」と思うだろう。でも、それが岡田ダンスなのだ。気になるのは、仕草の微妙な表情が映像化したときにどこまで劣化してしまうかということ。そこに一抹の不安はあるものの、このひとまとまりのダンスを見て驚いたのは、それがジーン・ケリー(ドン)のあのダンスのアンサーになっていたことだ。目下のところ、この制作記でぼくは岡田さんチームのトライアルを、「岡田さんが野上さんに振りを与える」ところにだけ見てきた。けれども、これの課題には「「雨に唄えば」のあの場面を解釈して映像のダンスを制作して下さい」というテーマがあった。岡田さんはそのテーマに応えてくれていたのだ。
もちろん、ケリーのダンスと岡田さんのダンスは異なる。でも、ケリーが踊るその高揚感や、雨のなかでそれを爆発させることなど、類似点もあり、そこにはケリーのダンスを解釈した上で、それを自分のダンスへと昇華させるという意図がはっきりと見えていた。それはまた、まるで岡田さんのダンスを解釈して踊ろうとしている野上さんの状態とパラレルに映った。野上さんは岡田さんをトレースし、その岡田さんはケリーを独自にトレースする。そうした身体へと写すことの連鎖が起きているのだった。
岡田さんのダンスの全貌が見えたことで、野上さんのダンスは断然良くなっていた。「掴んでいる」感じがした。そのことを岡田さんも感じているようだった。野上さんは何を掴んだのか、少しぼくも含めた岡田さんと野上さんのやりとりを音声レコーダーから採録してみる。
岡田 今日の(野上)絹代ちゃんのダンスを見てて、すごく良いなと思う瞬間がいっぱいあった。
野上 なんかやっぱりマックスっていうか、ぱんぱんな[全体が密度濃く出来上がった]状態というのがみられると、それ[振り付けの一つ一つ]がどのように出来上がっているのかが観察できていいんですよね。
岡田 でも、まだ自分のなかではぱんぱんになっていないんだけどね。全体像がね。
野上 「これが智代ダンスです」っていうのがあるといいんだよね。例えば手を上げるところ[冒頭の手を半ばまで上げて手のひらに雨?砂?を感じ、手で払う動作について]で、とまどうのはある。でも、全体が示されていて、その上でこの成分は小麦粉とタマネギととか言われるとよくわかる。でも、「まず小麦粉を用意して!」と言われると、とまどう。
岡田 こういうダンスだと、振りをこうやってこうやってというタイプの振り付けと違って、ある程度、何で出来ていているのか、その成分、例えば、同じジャガイモと何とかとかんとかとだけだと、それで中華が出来るのかイタリアンが出来るのか和食なのかが分からない状態だと材料の扱いに困るわけだよね。
野上 多分作り手は一個一個そうじゃないですか。味がはっきりと分かれば、それをもとに自分なりに発展してゆけるかもしれない。「岡田さんは小麦粉何グラムっていっていたけれど、私はあえてルーを使います」って、出来る。
岡田 今日すごく良かった。
野上 私も発見だった。枠組みを知らないと窮屈なんだけれども、枠が与えられれば、ここにどうやってハマる体でやるかというように考えられると窮屈に感じない。岡田さんが本当に大事にしてるものを継承するというのであれば、できるかもしれない。
木村 その「本当に大事にしているもの」というのはどういうものなんですかね。
野上 ひとつひとつの動きに対してあててくれている言葉、「やわらかく、しっかり、立つ」とか「これは地中に生えていて、それが天高く伸びていくような」とか。それが具体的な動きとしてはこうなっているんだけれど、それを踊ることに対して、何かまた別の方法があるのかなって、思う。そこから別のダンスができるかもしれない。
木村 「岡田ダンスとはこういうものだ」という何か理念的なものが野上さんの口から出てくるような気がして聞いたんだけれど、そうじゃなくて野上さんの口から出てきたのはとても具体的な指示だった。それを受けて野上さんは新しいダンスを作り、それによって岡田ダンスを「継承」することを考えているんだね。
野上 大事なのは具体的なイメージだと思う。
岡田 動作の個々の指示というよりは、「やわらかく、しっかり、立つ」なんてのは私がそう言葉にして出しているのであって、それを野上さんがどう解釈してどう立つかというのは、野上さん次第だと思う。……動作の指示、動作の指示は結構したよね。「もの[具体的には棒]が自分の体の延長であるように、指の一本をたどるような気持ちで[指を沿わせていって]」とか、ひとつひとつの言葉だと思うんですよね。
木村 面白い。
岡田 ジーン・ケリーは喜びをバーンと開いていくけれども、私の場合は……、少しずつ、少しずつ、自分のなかに満ちていったものが……、最後に「あー」って空間を動かしていき……、空間に満ち満ちてきたものが溢れちゃって……、「でも、大・丈・夫」ってね。
木村 いま岡田さんが口にしたような言葉って活かしたいですよね。
野上 暗闇のなかでその言葉だけを聞いて動いてみるとかね。道を歩いている人に「この言葉を聞いて動いてみて下さい」なんてやってみるとかね。
木村 あー、とっても面白そうだねー。たとえばさ、映像なんだけど、最初は真っ黒の画面で、言葉の指示だけ聞こえている状態が一分くらい続いているとか!「その言葉から生まれる動きってどんなものなんだろう!」と見る者に想像させておいて、その次に映像が出てきてもいいんじゃないかな。言葉によって喚起されるものね、イメージが。
野上 ダンス習うときってそう[言葉に促されて、言葉がイメージを引き出して]ですよね。「しっかりやって!」とかいわれて、しっかりやってるつもりなのに!とか思ったり。
木村 村祭りの踊りを長老が若い村人に教えるときなんてのはこんな感じなのかなって思って、いま二人のやりとり聞いてた。
岡田 あれみたい。民話を口述で伝えるみたいなさ。
野上 そういう感じが面白いと思ったんですよね。
言葉とダンス
採録した会話の後半で交わされているのは、岡田さんが野上さんに振り付けるために思案して生み出した言葉についてである。いずれ、完成した映像のなかに収められるかもしれないので、ここでは出し惜しみしようと思うのだけれど、これは率直に言ってとても面白いものだった。言葉とダンスの関係は不思議だ。ダンスは言語化できない身体でしか表現できないものを表現するものとしばしば思われている。それを一概に否定するつもりはないのだけれど、でも、ダンスを作る際に生まれる言葉というものがあって、その面白さに驚かされることがよくある。
ぼくの知る限りその最たるものは土方巽の言葉であり、大野一雄の言葉だ。たとえば大野の言葉。「踊るときには、魂が先行する。人間が歩くときは、足のことを考えますか。誰も考える人はいない。子どもは、こっちへおいで、と呼ばれて、おかあさん、と、こういくでしょう。命は、いつもそういうものですよ。じっとしていない。」(大野一雄『稽古の言葉』p. 83)大野のこの言葉や大抵の土方の言葉も、知的で、ダンスについて語るメタ・ダンス的な言葉なのだけれども、そして、その点で彼らの言葉は実に面白いし、彼らの動きの動機を知ることのできるものであるのだけれども、岡田さんの言葉の面白さは、もう少しダンスの動きに寄り添っている。ダンスの動きというよく分からない、言葉にしにくい感覚を岡田さんは「やわらかく、しっかり、立つ」などという言葉へと置き換えてみた。野上さんが子どもの頃のことを思い出すように口にした「しっかりやって!」みたいな言葉は、ストレートでそれもまたダンス教師の意思を伝えるものとしては正確なのだろうけれども、それほど面白くない。「やわらかく、しっかり、立つ」は、岡田さんのダンスが繊細な部分をもっていること、そのニュアンスがどんなものあるのかを包蔵している。もっと時間をかければ、もっと適切な言葉になるのかもしれないけれども、とっさに出た言葉らしいフレッシュさがある。この言葉は、ダンスの何なのだろう。最終的にいらないものなのだろうか。それとも、それを含めてぼくたちはダンスを味わうことが出来るのだろうか(これまで味優先だったジュースの世界で、栄養価を壊さないジュースを飲めるようにしたスロージューサーを連想しつつ)。
岡田ダンスの生成変化する性格?
もう一つだけ、ここに記しておきたいことがある。「やわらかく、しっかり、立つ」のような言葉にも顕著なのだけれど、岡田さんのダンスには、ダンスが面白いものになる秘訣が込められているということを、あらためて思わされた。それはつまり、岡田さんのダンスにはいつも矛盾が含まれているということだ。「やわらかく」と「しっかり」は「立つ」ことのなかで矛盾している。「しっかり」にはどこか強制されたものの感じを受けるし、「やわらかく」にはそうした強制からうまく距離をとれている感じを受ける。このどちらかではなく、両方を含んで「立つ」こと。「しっかり」から「やわらかく」が漏れ出す。「やわらかく」のなかに「しっかり」が透けて見える。この状態を達成するだけで、その「立つ」はダンス(スリルをともなう運動)になる。
ぼくにとって、このようなダンス性を強く感じさせるダンサーに室伏鴻がいる。また黒沢美香がいる。岡田さんとのこの2回のリハーサルを通して岡田さんのダンスにそうした二人と比較したくなる要素があることに、あらためて気づかされた。あまり過度に学問的な読みでトーンを作るつもりはないのだけれど、岡田さんには何かドゥルーズの口にした「生成変化」という言葉とともに考えたいところがある。何かが何かに「なっ」てしまう、その変身の作法が岡田さんのなかでほとんど無意識的にとられていて、気づくとさっきまでの自分ではなくなっている、ということが実に巧みに設えられている。
問題はそうした要素がカメラを通して、映像になったときに残るかどうかだ。宙吊りの状態(やわらかく、しっかり)がしっかり伝わるか? どうすれば伝わるのか? ずっと岡田さんとともに考えてきたのは、野上さんに岡田さんのダンスが伝わるのかだったけれども、いまぼくが気になっているのは、岡田さんのダンスが映像のフィルターを通した後でも観客に伝わるのかだ。さて、これ、どうしよう。
木村覚
2014.9.14