2015/04/11
虫が私の部屋へベランダの窓から入って来たのはたしか9月の終わり 深夜1時頃で 少し涼しくなってきてたからその日はベランダの窓を開けたまんまで寝ていた ベッドでうつ伏せて そしたらいきなり腰の辺りが重たくなって なんだろう なんだろうって 寝ぼけたまんま後ろを振り返ったら虫が私の腰の上に乗っかっていた 目と目があう 私はびくっとする 虫はナイフを私の顔の前に出した 私はうつ伏せのまんま動けない 心臓の音が大きい 虫は私のパジャマと毛糸のパンツを下して私の中へ自分のものを入れてきた 虫は入れただけでこすらずに射精した これが始まりの日で その日から虫は私の部屋に何回も来た 私は毎晩虫が入って来られるようにベランダの窓を開ける 寒くても寝るときはうつ伏せが癖になった きっとそれは虫がはっきりと形のあるものに見えたから 私の周りのものはっきりした形がなくて全部が不確かな全部が風景のようではっきりとなんにも見えない そのなかに虫ははっきりと濃くなってみえた だからあのとき虫を待っていた うつ伏せて(市原佐都子『虫』冒頭)
Date | 2015年3月19日 |
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From | 木村覚 |
To | 市原佐都子 |
市原さん、こんにちは。
往復メール、よろしくお願いします。このメールでの対話を通してぼくが市原さんと行いたいことは、市原さんの戯曲の一部を取り出し、そこにあるQのQらしい側面を考察すること、そして、そこからぼくの心に浮かんできた疑問や質問をほうり投げて、市原さんに答えてもらうことです。そうするなかで、市原さんの演劇の面白さをぼくなりに紹介できたらと思っていますし、またできることなら、市原さんに〈連結クリエイション〉第2回のテーマ「ニジンスキー『牧神の午後』を解釈して映像のダンスを制作してください」に取り組んでもらうにあたり、このやりとりを通して何かのヒントを見つけてもらえたら、と期待しています。上手く行けばいいのですが……。どうぞよろしくお願いいたします。
さて、まず今回、最初に取り上げたい戯曲は、上に引用した『虫』(初演2012.12)の冒頭です。
妄想か現実か、比喩なのかそうではないのか、ここには「虫」に侵入された女性によって一種のレイプが語られています。しかし「レイプ」だと思うと不思議なことに、「被害者」の女性はその後、布団の中で夜ごと「虫を待って うつ伏せて」いるというのです。
この舞台が、ぼくにとってはじめてのQでした。そのはじめての舞台の最初のシーンがこれでした。微妙で複雑なはずの「人間の真実」が、しかし、おぞましいともいえるくらいストレートに的確に描出されていました。驚きとともに「ああ言っちゃった!」という、笑わずにはいられないような痛快な気持ちになったのを覚えています。
「虫」には多くの種類の女性たちが描かれています。ぶりっ子しゃべりの女子大学生、弁当屋で週6で勤務している女、その弁当屋にクレームに来たおせっかいな女、その女の後輩など。女性たちへ向けられる市原さんのまなざしはとても冷静です。
何か不意に、自分の力では抗しきれない何かが、自分の身に侵入してくる。その状況を市原さんは慎重に執拗に描いている。それがぼくの思うQの大きな特徴です。侵入という出来事。侵入の感覚。侵入は強烈に不快ですが、実は市原さんのまなざしはそこに留まっていなくて、侵入の秘めた快楽にもまなざしは向けられています。そのことが、女性の身体を主題にしているゆえのことだと考えるのは容易いのですが、そしてそのこともいずれ市原さんに話を聞いてみたいことではあるのですが、実はこの「侵入」をめぐる事態というのは、Qの芝居のなかで必ずしも女性に限ったことではありません。
『プール』(初演2012.1)という作品があります。プールの監視員として男(山田)が登場します。沢山の人が入るプールというものの汚さにいつもおぞましさを感じている潔癖性です。潔癖性ゆえか、毎週病院に通って腸内洗浄を施してもらっています。そんな男がプールの監視員を務めていまるという。不幸というか……悲喜劇的です。ところで、そもそもプールというのは、そこに張られた水を通して、人間の身体のすべての穴を他人のもつすべての穴と交流させてしまうものです。こんな風に考えるとプールに入れなくなるので、ぼくらは普段そうした面に目を瞑っているわけですけれど、市原さんはプールをそう捉えるわけです。結末部では、監視員の男は、ある女がプールでおしっこしているさまを目撃し、絶望します。でも、その最後の言葉は微妙な響きを含んでいるように思うのです。
おしっこだ またおしっこ隠しジャンプだ 息継ぎするたびに 少しずつ水が口の中に入ってくるし 塩素も大腸菌もあの人のおしっこも少しずつ入ってくる 息継ぎしないって決めても絶対に息継ぎしたくなるし だから絶対息継ぎを止めることはできなくて 口の中に水は入ってきて もうどうしようもない
(市原佐都子「プール」結末部)
そう、最後に男は「もうどうしようもない」と呟く。どうしようもないのです。ぼくたちは自分の穴を塞ぐことができず、別の誰かの穴と交流しながら生きているのです。そのことは逃れようがない、どうしようもない現実です。水の中ばかりではありません。「ノロウィルス」も引き合いに出すことで、市原さんは空気中だって水の中のようなもの、と言っているように感じます。「もうどうしようもない」とは「あきらめとも」いえますが、ひょっとしたらもう少し積極的な「受諾」あるいは「肯定」なのかもしれません。
そして先に触れたように、市原さんの芝居では、侵入の不快感ばかりか、またその「もうどうしようもない」さまばかりか、さらに侵入がもたらす、口にしづらい快楽さえも感受しています。そのことが、ぼくの思うQらしさの一つです。
さて、市原さん、ぼくが掴まえたこうした点について質問しても良いでしょうか? どうしてこのような「人間の真実」について描こうと思ったのですか? その発端にあったものは何なのですか? あと、せっかくなので、もう少しさかのぼって、市原さんが演劇を志すことになったきっかけについても、ぜひ聞かせてください。
Date | 2015年3月24日 |
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From | 市原佐都子 |
To | 木村覚 |
木村さん、おはようございます。
私「人間の真実」なんて描けないよ、と思いました。これまで生きてきて教育されてきて、つくられた世界のなかにいて、誰かの好きなものを好きになっていくばかりだと日々そうゆう思いがあって、そこから逃れることはきっとできないし、それにおおらかに踊らされて楽しいじゃないかという気持ちと、気持ち悪さも持ちつつ、そのなかにいることしかできなくて、そのなかで自分の世界を、私のほしいものも、作品を、つくっています。
答えになってないかもですが、人間の普段見えないところ、隠さなければいけないとなんとなくされているところには隠されているからか見たい気持ちが湧きます。整えて暮らさなければいけないけれどどうしても整わないところが垣間見えると魅力的だと感じます。戦っているなあと思います。鼻からあんまり整える気のないワイルドな人も好きですが。それでも少なからずみんながみんなと同じ世界で生きるために整えていると思います。そこからはみ出たところを描きたいのはあります。
虫やプールの話ですけれど、
まず虫は、蚊が血を吸いに来て自分に勝手に刺して血を吸ってどっか行くのって私からするとすごく勝手なことをされているなと感じます。けど蚊にとってそれが蚊の暮しで。この蚊に刺されることで私は自分とは他の生き物が生きているってことや、自分に血が流れていることを意識します。ということから書いてます。虫でぼんやりとした女の中に虫が侵入して女の子は目を開かされます。なにかに侵入されることで自分の体のことを感じる、生きていると感じる。普段生きていて感じにくいことだと私には思えます。この台詞は大学時代に書いたもので、いまもですが、当時その思いがすごく強い時期があったと思います。
たぶん「女が男のレイプを待っている」と受け取って嫌だとか感じる人もいるだろうけど、私はレイプとは全然言ってなくて、そこは違和感があります。レイプという言葉もない「虫」っていう自分とは違う生き物の生命力が突然暴力的に入ってくる。ただ生きているだけ。良い悪いもない。言葉がないということかもしれません。私たちはその次元にはもういないので、その次元でのできことが起きたというのは無理なことですが、その次元の体験を虫では描きました。実際虫がなんだとかは知りません。彼女にとってはそうゆう体験だからそれでいいと思います。だからそんな体験は特別だし、待っていたと書きました。書いた当時はここまで意識的でなかったけれど、レイプとか男の人の欲望とかそんなの考えなくてよくてただ理解できない生命力の塊みたいなもの入ってきたのだということはすごく意識していて役者たちに話したと思います。
ちょっと質問を、木村さんもやはりあれはレイプだと思ったのですよね? それでどう感じましたか? またレイプじゃないと言われるとどうですか?
プールは、監視員の男は潔癖なのですが、でも作品中で汚いと思っている女のことを思って勃起します。体が反応してしまって、頭では汚いと思っているけれど勃起する。その自分にびっくりするけれどそうなってしまうのだからそうゆうことなんだとわかる。彼女でオナニーをする。ラスト、監視員は今まで入らなかったプールの水の中に自分から入り、泳ぎます。息を吸わなければ生きていけなくて、でも息を吸えばいろんなものが自分の体の中に入ってきます。そのことを受け入れて生きていくと決めたというような。稽古しているときはちょっとありきたりかも、かっこつけちゃってるかも、ってこのセリフ恥ずかしいと思っていたような気がします。侵入というよりもこれは溶けて同化していくというようなイメージがあります。
演劇を志したきっかけというかなりゆきについてです。高校時代演劇コースで学びました。その高校を選んだ理由はたぶん推薦で入れそうだったのとバレエの授業があったからだと思います。受験勉強をしたくなかったし、バレエを習っていたので。高校の演劇の授業は今思えばなにをしてたかよくわからないけど真面目に受けていて、演劇への興味が強くなっていきました。舞台もよく観てました。高校卒業して大学でも演劇を勉強するために桜美林を選びました。大学で学内の舞台を中心に役者をやってましたが、卒業を目前に卒業研究で初めて演劇を創作しました。「虫虫Q」(木村さんが観た「虫」の元)という作品です。それがけっこうやりがいがあってもっと書きたいと思たから、Qをやってます。