2015/06/06
ふっどうでもいいわ 私のお父さんのナイス16世もチャンピオン犬なの 私のお父さんは私のおじいちゃんでもあってお母さんのお父さんでもあるの つまり私のお父さんは血が良いから子供でもあるお母さんとも交尾したの 近親相姦といってニンゲンはやらないことなのですって 昼ドラでみたわわわわー こうゆうイヌの交配のさせ方 ブリーダー的にバッククロスっていうのですって 血が濃くなっちゃうから本当はやらないほうがいいのですって だけど私の飼い主はやるのですって
(『いのちのちQⅡ』)
Date | 2015年4月2日 |
---|---|
From | 木村覚 |
To | 市原佐都子 |
お返事ありがとうございます。前回頂戴したメールの冒頭に「私「人間の真実」なんて描けないよ」とありますが、その直後に市原さんがお書きになっていることは、まさに「人間の真実」なのではないでしょうか。Qのウェブ・サイトには、「人間」ではないけれども「ニンゲン」の文字が出てきます。立派な「人間の真実」かは分からないけれど、市原さんのメールには生き物としての「ニンゲン」の行動の機微がとても丁寧に描出されています。世界の様々なところでぼくたちは不断に「教育されてきて」おり、そのフレームから逃れられず、その状況を楽しむ気持ちもあるけれども、もちろん、気持ち悪いとも思う。檻のようなものに、生まれたときからずっと囲われているような感覚。
さて、前回のメールでぼくは「レイプ」の言葉を用いました。これもまたぼくが誰かから教育されて、こういう状況には「レイプ」という語をあてがえばよいのだと思わされ、その結果、無自覚なまましたことなのかもしれません。いや、そんな濁したいい方せずに、「レイプ」の語を軽率に用いた自分の深層心理をもっと真摯に探るべきかもしれません。どうなんだろう。どうして使ったのだろう。
この「虫」を蚊の類いだとは思えなかった。もっと生々しい獣性を宿した、でも不思議と軽快で、ひょいとこの女性の生活に侵入してきたファンタジックな存在。最初、ああこれは「男」のメタファーなんだ、と思いました。ここに「レイプ」の言葉を置いた理由があるはずです。けれども、軽快に部屋に侵入するさまからすると、射精する男は実は「虫」のメタファーなのではないかと、そのようにも思えます。虫のような男、男のような虫。そのどちらともつかないような曖昧さ、劇場で見た時、一番強く感じたのはそのことでした。
だからやはり「レイプ」は軽率でした。おそらく、これからのやりとりでもこうした間違いは起きると思います。市原さんはそうではないかもしれませんが、こうした間違いが露呈されることはそれ自体よいことだと思います。ぼくのミスですが、部分的には男性的な主体が起こしがちなミスであり、ともかく、そうした男性性から距離をとって、「ニンゲン」について考えるスタンスが取れないと、Qを観る意味はないように(こんなぼくですが)思うのです。
さて、今回はQの『いのちのちQⅡ』を取り上げさせてもらおうと思います。
この作品は、ペットブリーダーの家に住む犬たちのお話です。血統を大事にするペット犬の世界における異様な交配の状況が、その当事者であるジョセフィーヌという雌犬の口から語られていきます。ぼくはこの作品がとても好きです。そもそもぼくはペット犬が苦手です。飼い主の欲求のままにかわいくされ、また去勢されたり、異様な交配を施された犬が、ときどき、人間のエゴを具体化したもののように見えるからです。かわいいというよりも、不気味で奇形的だと感じてしまいます。
もちろん、その不気味さは犬の責任ではありません。人間が犬をそう交配させてきた結果です。けれども、犬は望むと望まざるとにかかわらず、その与えられた生を遂行せざるをえない。ぼくはこの状況を考えるにつれ、犬が人間のメタファーのように思えてきます。親の愛情から逃れられない子供を見るような気持ちになります。
そしてまた、ここでも市原さんは、その逆、人間のイメージを犬のメタファーとして用いてもいます。
ぼくがこの作品を好きなのは、ジョセフィーヌという美しい犬が異種交配の夢を見ることです。テレビで知ったオタリアとの交尾を、ジョセフィーヌは夢に見ます。ジョセフィーヌはこの時、ニンゲンになってオタリアと交尾します。
私は夢でニンゲンのメスになっていたわ それで昔ながらの銭湯に行ったわ 最近のスーパーじゃない銭湯よ 番台のおばちゃんにお金払って裸になっておっぱいや毛の生えている部分をタオルで隠したわ それで浴場への扉を開いたわわわわ そこにはなんとびっくりオタリアがいっぱいいていっぱいのニンゲンのメスと入り乱れて交尾していたのだわわわ あ オタリアって言うのはアシカの仲間でトドより小さくてアシカより大きい動物よ 近場だとスカイツリーのなかのすみだ水族館にいるのですって そこじゃ間近でオタリアを見ることができるのですって 野生のオタリアって一番強い一匹のオスが複数のメスを独占してハーレムをつくるのですって だから負けてしまったオスだけで集団生活をするのですって 一生交尾できないのですって その負けたオスたちの集団が銭湯に来ていたわ それでニンゲンのメスとそこら中で交尾していたわ 欲情中のオタリアの鳴き声が浴場中に反響していたわ あ だじゃれだわわわ ふ どうでもいいわ そういえば番台のおばちゃん心なしかオタリアに似ていたような気がしてきたわ その瞬間私ピーンときたのよ あ なーるほどっ そう
負けたオタリアたちは銭湯で子孫繁栄していたのだわ 家族経営というやつだわ ニンゲンのメスはオタリアにペニスを入れられるとカラダがピンク色になって口からよだれをながしたまま水にプカプカ浮いていたわ しばらくすると茶色くて笹かまのような形の物体が股の間から出て来てすいすいとお湯の中を泳いでいくわ よーくみるとお湯の中にはたくさんの茶色い笹かまが泳いでいたわ あ なーるほどっ銭湯はニンゲンとオタリアのハーフの赤ちゃんの産湯でもあったのね 理になかっているわわわ 銭湯の壁には鶴とか亀とか富士山とか桜とかなすびとか鷹とか昆布とか打出の小槌とかよく分からないけどめでたそうなものがいっぱいリアルなタッチで描かれていたわ こ ここはまさしくパラダイスという感じ それで夢のすみだ水族館に行かなくちゃって目が覚めたのはだったわわわわ
(『いのちのちQⅡ』)
こんな夢を見てしまうジョセフィーヌは犬らしからぬ犬です。ジョセフィーヌはそんな自分を「イヌの革命児」と称します。ぼくはこの異種交配の夢が描かれた時、なんだかちょっと目眩のような感覚に陥りました。まず、これは男の体をしている自分にはなかなか得難い感覚だとも思いました。他の男性がどうかまでは分かりませんが、少なくとも、自分はそう思ったのです。産む機能をもった女性ならではの発想ではないか。そして、その自力では手の届かないイメージをリアルに想像しようとして、目眩を起こしました。
だからといって、ジョセフィーヌが、飼い犬としての人生から解放されることはありません。オタリアと交尾する夢も、太ったナイス(夫候補にして父にして祖父の犬)にオタリアの体型が似ていたために見たのにすぎないと、自分を納得させてしまいます。こうしたところが、この芝居を引き締めていると感じました。現実はそう甘くない。革命は簡単には起きないのだ、そう諭されるような気持ちになります。ただ、最後の台詞には、それでも、遠い先の未来の世のことが語られます。そこではジョセフィーヌの思い描いた異種交配が実現しているのだと、そう告げられます。
だけどだけどジョセフィーヌ 百世 千世 万世 ……世 はイヌとオタリアの子供を産むことになるのですって 少しずつ進化していったのですって やっぱりやっぱり 私はオタリアが好きだったのだわわわわわ
(『いのちのちQⅡ』)
進化を諦めない結末にはしびれました。と同時に、市原さんの異種交配への強いこだわりに興味がわきました。この話の流れで、もう一作品、紹介させてください。『迷迷Q』では、人間の混血が話題に上がります。ここにも、Qらしい雑交性への強い興味と一種の憧れが語られています。
……二人食べていたら 泣いている女の子がいる 黒人と日本人の混血の女の子 体のつくりがやっぱり日本人の子供とは違って なんだかばんばんって立体的で髪型はツインテールなのでバッファローみたいな女の子 だけど洋服は親の趣味なのかメゾピアノ的な感じで お母さんが日本人でお父さんが黒人でしょうか 日本人の血って薄いのかな ほぼ黒人でお父さん だけど洋服の趣味はお母さん ふりふりのレースのハイソックスはかされていて 白いレースのハイソックス窮屈そうなたくましい足が暴力的にふくらましていた ハイビスカスつけたキティちゃんのかいてある自転車手で押して泣いている キティちゃんはいつから魂を売ってしまったのか ハイビスカスつけたりメガネかけたり なんでもやる 安売りだよ あばずれだよ そんな乗り物つかわなくてもあなたの足ならほかの子に負けないくらい速く走れるよ バッファローガール そんな弱々しい布切れも破っちゃいなよ バッファローガール バッファローガールは私たちがいるのを見つけて速そうな足でわざわざあんまり進まなそうな自転車こいでいなくなってしまう
(『迷迷Q』)
主人公の女性が男性と公園でぶらぶらしていると、女の子に出くわす。女性はその容姿から女の子を「バッファローガール」と呼びます。恐らく黒人のお父さんと日本人のお母さんのハーフであろうその女の子は、容姿と不釣り合いな「メゾピアノ」の服を着て「キティ」ちゃんの自転車に乗って泣いている。女の子を「バッファローガール」と呼んで、励ましの言葉を投げかけるこの女性の心理にあるものとは、一体何なのでしょう。言い替えると、ぼくは「雑交性」と名づけてみましたが、市原さんが「雑交性」なるものにどんな興味をおもちなのか、市原さんから言葉をもらえたらと思っています。
木村覚
Date | 2015年4月5日 |
---|---|
From | 市原佐都子 |
To | 木村覚 |
自分の作品について語ること、説明をすることに慣れません。読んだ人を誘導してしまいやしないかと。なにか狭めていないかと。観たことのある人は自分の観た印象を大事にした上で読んでいただければと思います。
木村さんが抜粋した部分を改めて読んで。
また違う話かもですが、何でも自分の好きなものについて私はどうしてそれが好きなのだろうと考えてみたとき、日々暮らしていて生きてきたなかで好きなものが思い出と共に増えているなと思います。そうじゃなくお腹の中から決まっている好きなものってあるのでしょうか。見た目は自分が好きなものによってできていくのか、見た目に合わせて好きなものを選んでいくのかとかもよく考えます。見た目と中身にギャップのない人とギャップのあるひとはいますよね。理解できない、どこで教わったの、という好きなものを持っているひともいますね。それをどう好きになったのかきいてみたいです。話がそれてしまいそうです。
ジョセフィーヌのオタリアだったり、バッファローガールのキティちゃんやメゾピについて。
あの作品に登場するイヌはニンゲンに飼われていてニンゲンに抗うことはできずそのなかにいることが生きることです。ジョセフィーヌは同じ犬種のフィアンセのイヌと交尾することが決められてニンゲンにエサをもらいずっとテレビを見ています。テレビの情報がイヌたちには大きく影響しています。ジョセフィーヌもテレビでオタリアや銭湯や交尾を見ていてそれが夢に出てきて、自分はオタリアが好きだと言い出す。結局ジョセフィーヌは自分はただのニンゲンに飼われているイヌにすぎないと気づくのですが、やっぱりそれでもジョセフィーヌがお腹のなかの時点でオタリアが好きであってほしいと思いました。テレビはそれを気づかせるスイッチにすぎなかったと。そうじゃないと生きていることが悲しいです。次の世代次の世代といのちをつないで好きなものに近づいていくという結末にしました。
バッファローガールも彼女の持ち味を消すようなメゾピアノやキティちゃんを好きだと母親に思わされています。公園で窮屈そうなバッファローガールを見た女はバッファローガールの分まで動物になろうと公園で交尾をします。それは女にとって自分とバッファローガールが重なったからです。あの女は他のいろいろな場面から自由で本能的な人に見えるしそんなな部分が他の人物よりたくさんあるのですが、そんな女も昔飼いイヌに便を食べさせ肛門をなめさせていて特別な繋がりをイヌと感じていながらイヌ同士の交尾を目の当たりにして種の壁を感じた子供時代があります。その経験に女は無意識にとらわれています。
バッファローガールのその後がまた違う人物に語られます。自分の本当の体の声に耳を澄ませたバッファローガールはその窮屈な洋服を己の筋肉の力で破りサバンナに行ってキティちゃんよりチーターを好きだと言った、というような内容だったかなと。それはちょっと伝説みたいな極端な話なんですけれど。そんなバファローガールがいたらかっこいいです。
いろいろな雑音が溢れるなかで、お腹の中からの自分の声「私は……が好きです」をまだ私たちは聞けてそれに従って生きているとしたかったのだと思います。
でも私は別にジョセフィーヌやバッファローガールなどあるカタチのなかで無理している不自然な生き物たちが悪いとか嫌だと言いたいのではなくて、その姿に興味があってそれはそれでとても気持ち悪かったり不自然でも輝いているものだと感じるときがあります。ちょっとバレエにも同じような魅力があるような気がします。また同じようにお腹の中からの好きがあるとして私はたぶんお腹の中で女になって男が好きだとゆうことが決まっていたと思います。それは時々とても窮屈に感じます。それはきっと違うことが絡み合っての窮屈さなので違うかもしれないですが。とにかくお腹の中で決まっていることがあったとして、そのお腹の中で決まっていることが素晴らしいと言いたいわけでもないです。
不自然なものが輝いているというところにも通じるのですが、交わらないと思われていたものが交わっているというのはなんだか惹かれます。寿司の魚と米の交わりや生ハムメロンとか。出会うはずのないものが出会ってひとつになっている姿は面白いです。またそれが体に入って形を失い一つの液体になって流れるというのも惹かれます。
雑交性……っていう言葉からほかにももっと言うべきことがあるような気がして、でもなにか浮かんではまとまらないのでひとまずこれで返させていただきます。ではでは。
市原佐都子
Date | 2015年4月9日 |
---|---|
From | 木村覚 |
To | 市原佐都子 |
メールありがとうございます。こうやってやりとりをさせてもらうと、一貫した市原さんの感じ方・考え方が次第に自分の内に浸透してくるようです。「誘導」してしまうのでは、という思いも分かります、ただ、市原さんの言葉は、Qへの理解を助けることになりはしても、理解を狭めることにはならないでしょう。演劇を見るという体験でもそういうことが起きますが、このように意見を交わすということがそれ自体、自分をモノトーンではない雑種的な存在にしてくれるように思います。市原さんの思考と自分のこれまでの考え方とがブレンドされる。それは、考え方という知的なレヴェルのものではあるけれど、なにやら身体がまるごとトランスフォーメーションされるような、そういう「むずむず」を身体が引き起こしている、そんな出来事のようです。
「不自然」とか「無理している」とか、そうした表現で市原さんがあらわしているものと、この「むずむず」は似ているかもしれません。「不自然なものが輝いている」というのは、絶妙な言いまわしですね。滑稽だったり、やるせないような思いだったりが「不自然なもの」に纏いつくけれど、でも、だからこそ、なんだか温かい気持ちが湧いてきたりして、そういうところにこそ「いのち」のかたちがあるのかもしれません。
「雑交性」というテーマとともに、ぼくはそうした「不自然」や「無理している」感じを、戯曲だけではなく、市原さんが役者に与える身体への演出の内にも強く受けます。ぼくはダンスの批評を仕事としています。その立場からしてみても、Qの舞台での役者たちの振る舞いは、きわめて独特です。すでに紹介した作品『虫』の冒頭をその点でもう一度見てみると、吉田聡子さん扮する女性は、観客の方を向きながら、バレエを背景にしたような動作を繰り返しますが、気張り過ぎていて、ちょっと、いや、かなり滑稽です。「どうだ、すごいでしょ、見て!」と言っているようにも、「ああ、上手く決まっていないかもしれないけど……まあいいわ」と言っているようにも見えます。ずっこけている、けど、そのずっこけている私のこともわかっている、けど、身を収めようがなくて、だからちょっと居直って、もう一度ポーズをとって、やはりずっこけている。そんな風に見えます。
こうしたQらしい動作をぼくはダンスだと思っています。バレエやモダンダンスなどの背景をともなっているわけではないけれど、身体のせっぱつまった状態というものを表現している、しかも、笑いへと簡単に流したりしない、真剣で切実な身体があらわれている。
市原さんの身体表現に対する考えを聞かせてもらいたいです。いつかQの稽古場を拝見したいという願望はありますが、以前、その旨申し上げたら一蹴されてしまいました。きっと、稽古場では錬金術のごとき秘密の実験が行われているのでしょう。稽古場見学は無理だとしても、どんな考えからあのような身体表現がうまれているのか、その一端を披露してもらえないでしょうか。ぼくには上記したような独特な心の振幅が背景にあるように思うのですが……
木村覚
Date | 2015年5月28日 |
---|---|
From | 市原佐都子 |
To | 木村覚 |
返信が滞りすみません。
ただいま次の『玉子物語』の執筆と稽古をしてます。
稽古は見ていただいても面白くないと思いました。たぶん面白くないし恥ずかしいだけだなあと。なんか閉じてるなあと反省しつつです。
普通のことで当たり前なんですが、本のことばがその通りにだけ伝わるのではなくて動きとか演出でもっとたくさんなにかことば以上のことを伝えたいという前提で考えます。
そのなかで、役者がどんな感じの人かによっても言うことは違うのですが、演じていて演じている役者と本の登場人物とがぴったりときているという状態を当たり前にしない、演じているという状態をすーっと流させない、観客に演じているひとがいるというのを意識させるということはしたりします。 演じている役者が演じながら自分の演技への評価が見えるというのは面白いと思っています。本当の評価ではなくて評価をしている演技を見せるということです。切実なシーンを切実に演じているけれど、うまくできていない、でも演じなければいけないということを演じていたりして。どこまでも演じている。だから、木村さんのメールのような感じを与えるのだと思います。なにかにうまくなるようにするよりも無理をさせられているところをまず見せる。それでバレエみたいなカタチをあてはめてみたりとかしたこともありました。また気持ちが高ぶりそうなところでも簡単に高ぶらせない、その自分をひいて見て、嘘だから平気という視点と嘘なのにとても苦しくなっているという視点とを持ってもらったり。気持ちが高ぶりそうでも動きがついてて気持ちと動きがちぐはぐして高ぶれないようにするとか。それがあると、また別でぴったりと演じているところが際立ったりします。 あとは本当はおさまらないくらいのなにかがその人から溢れててだけど身体の大きさは決まっているし、その人の形式のなかでしか動けなくて、だからその中に収められてしまって動きができてしまっている状態で、本当はこんな動きしたいわけではなくてもっと溢れててもっと違うのにこの動きに収まっているっていう風に見えたいということもあります。それも違う意味でぴったりときていない状態です。
ただ動くのではなくて登場人物としての中身もあってほしい。そのうえでまた別のところで動きがあって。それで動きが効果を生むような気がします。
演出をするときは、まず登場人物の入れ物に選ばれたひとがいるというように役者を見ます。
それだけじゃないのですが、きっと大きいです。
あと単純になんか動きをつけるのは好きで、やってもらうとその人独特の質が見えて魅力が出てくるから面白いです。同じような動きばっかり要求しちゃって、なんか制服みたいなところもあるかもしれません。この人にこれ着せたらどうだろうみたいな。Qによく出演してる飯塚ゆかりさんの身体をつかってできた私の中で定番になっていてよく選ぶ動きがあります。でもまた違う作品で他の人にしてもらうと違うように見えて面白いなあと思います。
稽古がんばります。
市原佐都子