2015/10/01
高田冬彦さんと、頻繁にスカイプをしています。
もちろん、第2回連結クリエイションでどんな映像を作るかの相談が中心です。そこで、もろもろでてくる高田さんのアイディアを聞くのがとても楽しい。思いがけないアイディアで、自分の凝り固まった思考がマッサージされる感じです。そんなやりとりをちょっとですが、ここで公開します。「りみっくす・おぶ・ふぉーん」に興味を持ってくださっているみなさんにも、何かしら刺激になるのではと期待してしまいます。

ぼくはこの映像とても面白いと思います。

木村さんがこれまでのアイディアだと(牧神の)ニンフとの関係性がちょっと弱いんじゃないかと話していたと思うんですけれども、それを受けて作りました。これはひとりで制作したので三脚の固定カメラなんですけれど、牧神のような動くカメラがあり、ある範囲内に複数の逆さニンフがおり、牧神がニンフを撮影しようとしても、ニンフは背中しか(お面の方の向きしか)見せてくれない。だけどチラチラ見える感じだと、顔は男だし不細工だし……みたいな。

このニンフは、「ニンフの変装をした牧神」と言うことではないんだ?

えっ、どういうことですか?

この人物が「ニンフに扮した牧神」だと思って見てました。

(笑)それも面白いですけれど、今回はそういうつもりで撮ったわけではないです。

ああ、そうなんだ。えっと、見てまず思ったのは、高田さんの体の動きって独特だよなってことなんですね。その質をどう解釈するとよいのかなって、考えたくなりますね。ある角度からすれば、「ダンスとして弱い」と評価されてしまう質かもしれないわけだけれど、弱いとかいわれても、その(いわゆるダンスらしいダンスの)質にトライしているわけではないからな、と思うわけで。じゃあ、でも、この身体の質というものをどう設定しようとしているのかってことは、明確になっていた方がよいと思うんですよね。簡単にいうと「素人的身体」ですよね。「生の体」というか「訓練されていない体」というか。ブリトニーをフィーチャーした映像みたいな、ユーチューバーのぬるいゆるい身体に似た身体性というか。何かに憑依しているのかもしれないし、内側にあるエナジーがみなぎっていたり、あるいは見られているということへの自意識の高まりが起きていたりとか、そういう身体の状態というものがあるんだろうなと、思うんです。その身体の質を活かすようなことは考えたいですよね。高田さん含め、今回制作を準備している映像には複数のひとが出演するのだとして、そういう複数の身体の質をちゃんと振り付けたいですよね。

今回進めている映像のなかに「自撮り棒で撮る」というアイディアがありますが、いつも多くの場合、ぼくは映像を「セルフィー」的に撮っているわけですよ。そこには「セルフィー」の正面性というか、ボーギングがもっている正面性に似た正面性がある気がして、「見られる視線」に沿って作っているダンスというか。そういう〈視覚的イメージとしての身体〉が実際の〈物理的でリアルな身体〉とぶつかって、時々上手くいかないみたいな、そういうコンセプトでぼくは作品を作ってきていると思うんですけれども、今回もそこに向かいたい気持ちがあります。だから「セルフィーしていてうっとりしている牧神が、ニンフに担がれて振り回されている」そういう対比として今回の映像を考えているんです。目指すイメージがあり、そこに迫ろうとする身体があり、しかし、身体はイメージに迫りつつ、届かない。限界としての身体性というか、イメージと身体のせめぎ合いみたいなものが面白いって視点があるじゃないですか。ぼくとしては、牧神がのめりこんでポーズをとっているけれども、ニンフたちに引き回され、落ち葉や草花が体や顔に引っかかってきて、ポースができていたりできていなかったり。そうしたせめぎ合いが見せられたらよいのかな、と。

ナルシスティックに自分の観念的な理想に身体がぴったりとくっついているかのように思い込んでいるダンサー(牧神)は、しかし単なるもの(身体という物体)でもあって、野放図に物理的な身体を世間に曝していて、その身体がリフトしているニンフたちにいいようにされてゆく、というわけですね。

はい。

一般論ですが、いわゆるダンス作品において、〈観念内のイメージ〉と〈物理的な身体〉の両方を見せようなんてこと、しないものなんですよね。普通、リフトって、バレエなどでよく行なわれるわけだけれど、あるポーズを完成させるための「台座」の役割に終始するわけです。「台座」としての役割を全うするために、自らの主張は隠しておかなければならない存在だよね。「台座」は「セルフィー」を完成させようとして、物理的な側面へと振り向こうとしないものなんです。

なるほど。ぼくの「リフト」っていうアイディアは真逆で、牧神を抱え上げようとしても、すったもんだして、素人のニンフが足踏んだり踏まれたりしていると。そういう「うまくいってなさ」というものを映像に入れるための役割なんです。

ニンフはどういう存在なんだろう。牧神のセルフィーを手伝う友人?

いや、セルフィーを邪魔するというイメージです。ナルシシズムに没頭しようとするのを外側から邪魔する。でも、それが、牧神の夢想の、自慰的なイメージと重なってくる。さらに牧神がペニス化して、ニンフたちはペニスをしごいているかのような状態に見えてくる。