2015/11/02
Date | 2015年10月13日 6:01 |
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From | 木村覚 |
To | 捩子ぴじん |
捩子ぴじんさま
今回、捩子ぴじんさんに急遽、第2回の連結クリエイションに参加してもらうことになりました。「急遽」というのには理由があります。6月にかねてから参加をお願いしていた舞踏家の室伏鴻さんが逝去されました。メキシコでの急病での他界という突発事態で、しばらく、どうしたらよいのかわからなかったし、いまでも残された室伏さんへの2日分のインタビューの動画をどう扱ったらいいかなど、戸惑いと傷心は消えていないのですが、7月に捩子さんとお会いした時に、一旦、参加への許諾を頂戴しました。「室伏さんの代打」みたいに考えることは、いかように捉えてもふさわしいことに思えません。ですから、途中参加ような形でもあるのですが、あらためて、3人目の作家として捩子さんに依頼申し上げたという次第です。
とはいえ、捩子さんもまた室伏さんとの親交をもっていたわけですよね。あるいは「室伏鴻」という舞踏家への思いを強く深く持っていた舞踏家、クリエイターの一人だと想像しています。
もしよろしかったら、室伏さんへの思いを今回この往復書簡のなかに盛り込んで欲しいのですが、それは可能でしょうか。手短なものでも、かまいません。
そして、できたら過去に目を向けるだけではなくて、未来に進んでいきたいです。いま第2回の連結クリエイションでは捩子さんに「ニジンスキー「牧神の午後」を解釈して映像のダンスを制作してください」というお題を出しております。このお題について、思うところがあったら教えてください。
すでに講師を担当してくださった「BONUSダンス演習室」では、「パン」という存在をYoutubeやネットの情報を中心に探索してみるというお話をしてもらいました。その際に、受講者に配られたリンクがこれでしたね。
http://matome.naver.jp/odai/2142634423060299901
ここで話したかったことをごく簡単なまとめでかまいませんので、説明してくださいませんか。このなかに、今回捩子さんが取り組んでくださる映像のヒントがあるのか、ないのかは、分からないのですが。
お返事楽しみにしております。
木村覚
Date | 2015年10月14日 0:31 |
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From | 捩子ぴじん |
To | 木村覚 |
木村覚さま
もし存命であればこの企画に参加して映像作品を発表するはずであった室伏鴻さんについて考えながら文章を打っています。室伏さんが監督する映像作品「牧神の午後」は是非見てみたかった。
本人の人となりや、会話の数々から立ち上がるイメージよりも、瞬間瞬間の映像で室伏さんを思い出します。それは自分が実際にその場に立ち会っておらず、人から聞いた話ですら、その場で見聞きしていたかのような鮮烈な映像として立ち上がります。舞台上で倒れた勢いで床に転がった入れ歯。“若い時にコーラ飲みすぎてな”、ボソボソと話す姿。壁に頭を打ち付けてカッターシャツに付着した血のシミ。ジョンレノン「ウーマン」のカットアウトで漏れ聞こえる嗚咽の声。暗転板付、明かりが点灯するとサスから外れた逆立ち姿。メキシコ空港で心臓麻痺を起こして倒れる場面まで。まるで記録映像のように思い浮かべます。
格好悪くて格好良くてキュートなダンサーでした。
おそらく独自の活動を続ける多くのダンサーが老年まで踊り続ける自分の将来を想像した時に、体一つで世界を飛び回る室伏さんの活動形態は非常にリアルな実感をもって参照されていたでしょう。今からおよそ半世紀前に生まれ、完成し終結してしまった“舞踏”を更新する、切断と危機に立つ身体。“舞踏”の再利用ではない、生き生きとした未来が室伏さんのダンスにはあったと思います。僕にとって、手垢のついた使い古しの名前に可能性を見出させてくれた唯一人の舞踏家でした。“舞踏”を担う者ではなく、新たに更新する者として、舞踏家という肩書きを名乗りたい気持ちにさせてくれました。その上で僕はダンサーだったり、舞踏家だったり都合良く使い分けて適当に肩書きを名乗ろうと思います。
かつてJホラーと呼ばれブームになった和製ホラー映画の先駆者たち。黒沢清、高橋洋、小中千昭や鶴田法男らの試行錯誤の中心にあったのは、映画の中の幽霊は所詮生きている人間にしか見えないという問題をいかに乗り越えうるかということでした。解決策の一つは、画面の端に意図せず映ってしまったかのように、劇中で進行するドラマと全く無関係に人が佇んでいたりするといった幽霊の登場の仕方でした。そしてそれらの試行錯誤の後に現れたブームの火付け役、「呪怨」の清水崇は、幽霊を真正面からはっきりと撮影するという、それまでとは真逆のアプローチでホラー映画を作ることに成功しました。今回の「牧神の午後」映像作品には、この清水崇のアプローチをイメージしていました。撮影の技術も編集の技術もない。機材もない。ならばワンカメ、編集なし、iphoneで撮っても、そこに映っているものその物自体に魅力があり、インパクトがあるならば、その映像は魅力的で、インパクトがあるのではないか。演習室で見せたまとめサイトはその映像素材を探すための参照です。
これから撮影する「牧神の午後」映像作品がどのようなものになるのか、まだ想像できませんが。自分が舞踏家で、振付家で、ダンサーで、映像作家ではない、素人のカメラマンである、という特性を十全に発揮することが出来れば、その映像作品は魅力的になるだろうと思っています。
捩子ぴじん
Date | 2015年10月14日 7:56 |
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From | 木村覚 |
To | 捩子ぴじん |
捩子ぴじんさま
メール、ありがとうございます。
室伏鴻さんの存在は、ぼくがダンスを批評しよう、批評してみたいと志したことと深く関わっています。「edge」という公演をいまはなき神楽坂die pratzeで目撃したとき、いままで見た何ものにも似ておらず、しかし、自分がかねてから見てみたいと思っていた、そんな何かに出会ってしまったという「シビレ」のような感覚に襲われ、この出来事を言葉に封じ込められたら、、そんな気持ちになったんですね。その少し前から、当時生まれたての「インターネットの掲示板」というものに言葉を寄せてはいたのですが、「edge」を見て以降は、ダンスと言葉との関係が自分にとってきわめてスリリングなものになっていった、そういうことがありました。
いま思い出したことがあります。ある時どこかに(ブログかHPの「日記」かに)「室伏鴻は劇画的だ」と書いたら、室伏さんがそれをとても喜んでくれたんですね。室伏さんのパフォーマンスには、強烈に観客を巻き込んでくる迫真性があるのと同時に、そうした迫真性をどこかもう一人の室伏の醒めたまなざしが見つめているような、そうした重層性があると感じていて、まるで「ダダダダッー」みたいなオノマトペが頭上に浮かびつつ踊りが展開しているかのような、そんな「劇画性」として受け止めて、それを言葉にしてみたんです。それを、当の室伏さんが面白がってくれた、ということがありました。
そのときからぼくは、室伏さんの踊りは映像的だと、漠然とですが思ってきました。「分身」などというと、あの世の、教養高い室伏さんから何か言われそうですが、目の前の室伏鴻と呼ばれる身体が、どこか実在性を失くした存在に思えたり、身体はそこにあっても、心はそこにあらずだったり、そうした「分身」の状態が「映像」のようだと、そう思っていたんです。
それだから、生きていらしたら、いまちょうど撮影していたのだろう、室伏さんの「牧神の午後」がどんな映像になったのか、見てみたい気持ちはもちろんあるけれど、同時に、生半可に実行すると、映像を映像に収めるような冗語的なものになってしまう危惧を感じていました。その点では、しっかりと体制が整っていて、黒沢清のような監督にお願いできていたら、歴史的な映像になっていたかもしれない、と悔やまれます。
いつか、室伏さんが残してくれた「牧神の午後」をめぐるインタビュー、捩子さんに見てもらいたいと思っています。 でも、捩子さんが取り組む「牧神の午後」は、室伏さんのとはまったく異なるものになるでしょうし、そうであってほしいです。
捩子さん含め当代の重要な振付家・ダンサーにお越し願って実現した「座談会」で、捩子さんは自分の方法は「ニッチ」にあるとお話ししていました。すでに価値の確立した数多あるダンスあるいは芸術表現のスキマに、自分は可能性を感じるといった内容だったと思います。ある価値と別の価値の間にできたスキマ、そこは、確立した価値しか目に入っていないひとには、闇でしかないでしょう。その闇から暗黒舞踏が立ち上がったように、その闇から捩子ぴじんのダンスが立ち上がってくるのかもしれません。多くのひとと同様に、ぼくもその瞬間を待ち望んでいます。
でも、ここがBONUSのBONUSらしいところなんですが、今回の依頼のポイントは「映像でお願いします」というところにあります。そうなると、舞台の捩子ぴじんとは異なるアプローチが映像の場合求められると思うんですね。捩子さんが言うように、その際、捩子さんが「素人のカメラマン」であることは、重要なポイントになる気がします。いまや、素人のカメラマンの時代です。「自分の楽しみ」のために、膨大な量の映像が撮られている、それが現代です。そのなかで問うてみたいのです。ダンスと映像を掛け合わせるダンス作家に、一体どんなことが可能なのか、と。ホラー映画のお話しが出てきましたが、以前おしゃべりした時に『隣の部屋』(国立新美術館)展の話題になり、そこで写真家の作品がすごかったと言ってましたね。例えば、キ・スルギとかのアイディアにも、関連しそうな気がします。
と、乱暴にお返しします。
木村覚
Date | 2015年10月14日 9:26 |
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From | 捩子ぴじん |
To | 木村覚 |
木村覚さま
室伏鴻のダンスは“劇画的”であるとは確かに、言い得て妙です。その話を聞いて僕が思ったのは、網膜を通して見る必要はなく、カメラによって撮影される必要もなく、脳内で再生可能なイメージとして立ち上がる作用を持っている何かを今回提出することが出来れば、それを映像作品と呼ぶことができるのではないだろうか、ということです。「隣の部屋」でキ・スルギを見て激しく興奮していた演出家の岡田利規さんの稽古場で多用される言葉の一つがイメージです。イメージは脳内再生される映像であるとは限らない、テキストを読むことで役者に立ち上がるイメージではなく、テキストを読むために役者が立ち上げるイメージです。今回はyoutubeへの投稿がお題の一つであるため、映像はカメラで撮影し、網膜に映る必要があるのですが、木村さんから頂いたヒントによって、映像作品の形態を広がりを持って考えることができました。youtubeというメディアを使って視聴者にイメージが立ち上がる作品をつくりたいと思いました。具体的に言うと、目だけではなく、耳のことも考え始めています。当たり前のことですが、音声があるのだという事をようやく意識し始めました。そして12/16に会場で上演される実演も、映像=イメージを上演する、というコンセプトでパフォーマンスを作ることが出来るでしょう。
室伏さんが自身のダンスを“edge”と喝破したように、僕は自身のダンスを“niche”である、と積極的に言い張ることが果たして出来るのかどうか。でもエッジではなくニッチである、と言った時の語感の情けなさが好きです。エッジ? 俺はニッチだぞ! と室伏さんに言いたいような。死者は言い返しませんから。
捩子ぴじん
Date | 2015年10月16日 7:28 |
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From | 木村覚 |
To | 捩子ぴじん |
捩子ぴじんさま
網膜を通して見る必要がないダンス/映像の出現を企てるに際して、捩子さんが音声に手がかりを求めるというお話は、実に興味深いです。そして、またまた室伏鴻さんのことを思い出してしまうのですが、室伏さんの上演というのは、いつでも、豊かな音に満ちたものでした。唐突に、舞台上の室伏が客席に話しかける「ぼやき」(とつい言ってしまうのですが)の声はもちろんのこと、「ぼやき」の少し前の時間には、たいていの場合、体をねじり、そのねじれからうめき声が劇場空間を満たしていました。「ク、ク、ク、ク、クッ」と。あの声は、自分でねじっていながら、誰かからねじられているようで、ねじれてしまう体のどうしようもなさが見る者の体に感染し、見ている者も同じように体をねじらせてしまう、そういう魔術を帯びたものでした。あの声が「呼吸」と関連していることが、その魔術性の原因であったのでしょう、呼吸のリズムを室伏に奪われて、窒息しそうな恐怖を感じることもありました。
そんな「室伏鴻と音」の記憶を辿ると、室伏さんがsnacで真っ暗ななか30分ほどの上演を行ったことも思い出されます。闇に視覚を奪われた状態で、舞踏は可能か? 可能だったわけです。ガリガリと壁を指でひっかく音、ぼやき、「ク、ク、ク、ク、クッ」の声と、室伏の立てるいくつもの音たちが空間を漂う。そこに、見えぬとも気配として舞踏が存在していたのでした。あえて引きつけるならば、キ・スルギに、森の中に色付きの煙のような何かが浮かんでいる写真がありますが、その音響版みたいな上演だったといえるかもしれません。
それにしても、映像上の身体の実在感と舞台上での身体の実在感とが、似通うこともあるかもしれませんが、それでも、明らかに異なる何かとして、並列され、見る者(聞く者)の前にさらされることになる、その瞬間を楽しみにしています。
木村覚