2017/10/18
BONUSは2017年度、「ワークショップ」をテーマに進めてきました。 砂連尾理さん、神村恵さん、篠田千明さんという三人の作家に協力を仰ぎ、3回のイベントを実施、ここにその全容をアーカイヴしておきたいと思います。
なぜ「ワークショップ」だったのか? これまで2014年に「ダンスを作るためのプラットフォーム」として始まったBONUSは、これまでダンスの歴史を振り返ったり(「雨に唄えば」のジーンケリーによるダンスや、バレエリュスの問題作ニジンスキーの「牧神の午後」)、社会的なイシューをダンスと繋ぎ合わせようとしてみたり(障害(者)やテクノロジーというテーマ)と、ダンスのクリエイティヴティを今日的にアップデートするために必要な「ダンス神経」を鍛える試みに挑戦してきました。ただ自分の快感原則に従って踊っているだけじゃダメだな…… ただ楽しいダンスを見たいと思っているだけじゃ満たされない…… という欲求を抱える誰かと一緒に遊ぶプラットフォームを目指してきました。
一年前、まだBONUSが手をつけていない角度に「観客」がありました。ダンスを見せる/見る劇場空間にとって観客へ向けたアプローチに、新鮮な形を求めてみても良いのではないか。そこ、滞っているのじゃないか。「踊るダンサー」と「見る観客」って、「舞姫」「踊り子」「マイケル・ジャクソン」「(昔の)フォーサイス」みたいな過去のいくつかのモデルがあるけど、さして変わっていなくて、なんかもたもたした状態ではないかと結構前から思ってきました。何より、踊るダンサーと見る観客が分け隔てられていることが、「ダンス」という表現フォーマットを十分に活かしきれていないのではないかと感じていたわけです。別に、どっち?という話じゃなくて、観客がいわゆる「観客」でいることをやめて、自分の身体を座席から離して、踊ることに参与させる、そっちに振り切ったときに、かつて舞台と客席を分けていた劇場空間は、別の空間や集団性を生み出すのではないか、そっちの可能性を見てみたい。その思いが発端にありました。
今年度、私は研究代表者として〈「ダンス2.0」の環境構築を通して今日的教育という課題へとダンスをつなぐ試み〉というプロジェクトを進めてまいりました。今日は、このプロジェクトの成果を「動機」「経緯」「総括」の順でご報告いたします。
まずは動機についてですが、私は、申請書の研究目的の項目にこう書きました。
〈ダンスを教え学ぶ仕組み〉〈創作に集団的に参加する仕組み〉に応える今日的な方途を探すことが本研究の主たる目的である。つまりそれは、身体を扱うダンス表現の場で、踊り手(専門家や一般市民)を今日の社会的課題へと向き合わせ、その課題とダンスを掛け合わせる方法の探究へ主体的に取り組むよう促す教育の場を創造することである。
申請書のタイトルにある「今日的教育」とは、いわゆる教育機関とは直接関係なく、むしろダンス創作の世界において、アーティストと観客との関係を反省し、そこにあるべきフレッシュなアイディアの生まれる場を作り出そうとしました。とくにポスト・モダンダンスの方法論をベースに、具体的には「ワークショップ」を捉え返すこととして実施されました。
その動機の根底には、劇場で起きていることに私が飽きてしまっていることがありました。私は15年以上にわたり、日本のコンテンポラリー・ダンスや舞踏の公演現場に足を運び、批評を書き続けてきました。室伏鴻や黒沢美香、若手では手塚夏子や神村恵など、優れたダンス作家たちに刺激を受け、ダンスが持っている可能性に注目してきました。ただし、10年ほど前からでしょうか、劇場で起きていることには、あるルーティーンが支配しており、その文化習慣自体がダンスの創造性を阻害しているような気がしてしようがなくなってきました。とくに、舞台と客席との分離が物理的にも表現のレヴェルにおいても確然としており、その空間性に表現する側もそれを鑑賞する者たちも疎外されているように感じられて仕方がなくなってきました。世界はインターネットが市民権を獲得したあたりから、全ての人が発信者でありうる社会へと変貌しているのに、こと劇場の芸術の世界では、相変わらず、エリートの身体が踊るのを非エリートの身体の人間が黙って鑑賞していて、そこにこだわることの意味がわからなくなってしまったのです。
一つの場に集まった全ての人の力がその場を充実させることはできないのか。もちろん、観客が観客であることも一つの能動的行為であり得るのでしょうが、あえて観客を観客に位置に留まらせず、見る身体から動く身体となって、主体的にその場の構成員となる。教育学者のパウロ・フレイレは「銀行型」と「問題解決型」とに教育を二分し、生徒の中に教師が一方的に情報を押し込む「銀行型」の教育に対して、「問題解決型」は生徒が自ら世界と関わることで、世界を理解する能力の開発に勤しむものとし、「問題解決型」の可能性の追究を訴えた。例えば、教育哲学の分野で考察されている学ぶ者の可能性を観客の問題として考えて見ることで、何か切り開かれることはないのか。
よって、このプロジェクトの端的な目標設定は、「ワークショップを作るワークショップ」の創造にありました。アーティストでなくても、誰でも、自分のリソースを他者に学んでもらうワークショップが創造できるのではないか、そうしたワークショップを実施するのに、アーティストはどのような寄与が可能か。ここに、一つの到達点を設定して、三人の信頼を寄せる優れた作家たち(砂連尾理、神村恵、篠田千明)に、ワークショップの研究を一緒に進めてもらうよう依頼した。
(執筆者: 木村覚 京都造形芸術大学 研究経過報告会(2018.2.27)の発表レジュメより)
10年以上ダンスの美学的研究と批評に携わってきた研究代表者(木村)は、一昨年より「ダンスを作るためのプラットフォーム」BONUSを創設、ネット上での情報発信をベースに、リアル空間でのイベント、コンテスト、WSなども行い、ダンス・クリエイションの向上に努めてきた。昨年度は〈障害者との共生〉のテーマで貴機関より助成を頂戴し、実りある研究会とシンポジウムを実施した。来年度は、米国のポスト・モダンダンスとして括られる芸術運動のとくに「タスク」また「ワークショップ」というコンセプトをめぐって学術的かつ実践的な研究を進める。それを核とした上で〈ダンスを教え学ぶ仕組み〉〈創作に集団的に参加する仕組み〉に今日的な方途を探すことが本研究の主たる目的である。つまりそれは、身体を扱うダンス表現の場で、踊り手(専門家や一般市民)を今日の社会的課題へと向き合わせ、その課題とダンスを掛け合わせる方法の探究へ主体的に取り組むよう促す教育の場を創造することである。中心となるのは砂連尾理、神村恵、篠田千明の三人の作家である。彼らに三者三様の仕方でこの研究に取り組んでもらい、実際にワークショップを実施したり研究の成果をプレゼンテーションの形で発表したりしてもらう。
本研究は、調査(A)・研究会(B)・ワーク・イン・プログレス(C)シンポジウム(D)の主として三要素で構成される。
A 調査(2017.1-3)では、研究の準備としてこの課題に関連する専門家へのインタビューを中心に行う予定である。 調査対象の候補者は、この研究の進展に寄与する者とし、ポスト・モダンダンスの振付家・ダンサー、「タスク」「ワークショップ」の発案者アンナ/ローレンス・ハルプリン研究の専門家、またヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」「すべての人は芸術家である」などの概念にも関連するためその専門家などである。また実際の教育現場・公共ホールなどでダンスを教えている教員・振付家・事業者など。
B 研究会(2017.6-8のうち一回)では、Aでの成果を盛り込みながら、砂連尾・神村・篠田の三者を中心に、また研究分担者・ゲストを交えて、研究発表とディスカッションを行い、Dへの展望を明らかにする。
C ワーク・イン・プログレス(2017.4-12)では、研究とともに「ワークショップ」の実践を行いたい。
D シンポジウム(2018.1-2のうち一回)では、これまでの活動の成果を砂連尾・神村・篠田を中心に行ってもらう。またディスカッションなどの場も設ける予定。
なお具体的には、砂連尾には、被災地をリサーチした『猿とモルターレ』等を中心に、記憶・記録を継承する身体の可能性を探究してもらう予定である。また昨年度と継続してYCAMや熊谷晋一郎との恊働制作も計画する。
神村には、『トリオA』(候補)を再現するプロジェクトを実施し、「タスク」の概念を探究してもらう。
篠田には、「集団」「参加」の概念を分析してもらい、その可能性の条件を探究してもらう予定である。
(2016年10月に京都造形芸術大学に提出した申請書より)
さて、そこで僕が最初に始めたのは、インタビューを重ねることでした。2017年の2月と3月。
前述した三人の作家、砂連尾さん、神村さん、篠田さんとの「ワークショップ」をめぐる座談会も行いましたが、多くは、振付家やダンサーではない人たち、とくに普通の人たちと場を作っている人たちに話を聞きに行きました。NPO法人「芸術家と子どもたち」の堤康彦さんや、喫茶カプカプの鈴木励滋さんは、いわゆる観客でもない、その意味では観客未満の人たちと芸術表現に関わったり、関わりの中に芸術性を発見したりしている方たちです。つまり、舞台芸術を創造したり、プロモートしたり、研究したりするときには、ほぼ無視されてしまう分野で活動している方たちです。でも、彼らは舞台芸術周辺にいる誰よりも、一般の普通の人のことを知っている。その方達から、力をもらいたいと思ったんですね。その力は、ひょっとしたら、芸術を今ある形から解き放って、別の形へと変貌させてくれるのではないか、芸術とはこういうものだという思考の「殻」を突き破って、非芸術の何かを破ったところから注ぎ込んで、別の芸術へと僕たちを連れて行ってはくれないかと想像したわけです。
「ワークショップ」が作る未来のダンス③
アーキタンツ
「ワークショップ」が作る未来のダンス④
ダンス・ワークショップは子どもたちと何をしてきたのか
「芸術家と子どもたち」が見てきた「ダンス」
聞き手:木村覚
「ワークショップ」が作る未来のダンス⑤
石井路子
「ダンス上演のオルタナティヴとなるワークショップを発明してください」というテーマとともに今年度のBONUSは進んでいきます。ワークショップこそアーティストが観客と「自治的な集団の場」を創造しうる今日的表現形式なのではないか?そう考え、このテーマを神村恵、砂連尾理、篠田千明の3人に渡しました。今回のプロジェクトを通して、多くの参加者が未知なる「ワークショップ」の新鮮なアイディアを思いつき、実践する未来に期待しております。
来年1月には、京都造形芸術大学にてまとめのイベントを予定しています。それまでに大小様々な企画を進行していきます。
まずは7月に研究会を行います。【リサーチ編】では、先ごろ直接民主制を導入するかもしれないというニュースで話題になった大川村(高知県土佐郡)を訪問します。離島を除くと日本最少人数の村で起きていることは、日本の未来を先取りしているかもしれません。ワークショップが仮設的に社会を生成させる営みなら、高齢化や人口減少が進む共同体の現状を知ることで、集団的創造のヒントが見つけられないか…… との思いから、大川村をリサーチします。当日は、地元の方との交流や急峻な地形を生かしたワークショップも準備しています。【イベント編】では、前半に菅原直樹(OiBokkeShi主宰)さんの「老いと演劇のワークショップ」を体験し、考察していきます。後半は、前日までに実施された大川村のリサーチ成果を報告、また「ワークショップ」をめぐってのディスカッションを出演者たちと行い、議論を深めていきます。
【リサーチ編】【イベント編】どちらも、ワークショップの講師経験者の方、これからワークショップの講師を務めたいと考えている方、振付家・ダンサー、ダンス研究者、そしてもちろん一般の参加者の方も大歓迎です。【イベント編】ではWSの見学希望者も募ります。ワークショップは「未来のダンス」となるのか。皆さんと、ワークショップの可能性を考え・実行できたらと思います。
「未来のワークショップを創作する」ための研究会
日時:2017年7月9日 13:00-18:00
会場:京都造形芸術大学 楽心荘
入場料:無料(事前予約制)
WS参加希望(30名程度)/WS見学希望(10名程度)
主な内容:
・菅原直樹「老いと演劇のワークショップ」を体験・考察する(13:00-15:30)
・大川村リサーチの報告会(15:30-16:00)
・未来の「ワークショップ」をめぐるディスカッション(16:00-18:00)
出演者:
菅原直樹(OiBokkeShi主宰)
神村恵(振付家・作家!)
篠田千明(劇作家・演出家)
砂連尾理(振付家・ダンサー)
伊藤亜紗(東京工業大学)
木村覚(日本女子大学 BONUS)
7月には、直接民主制への移行可能性が新聞で話題となっていた高知県の大川村に行き、村民にインタビューするなどリサーチを実施した。またその報告を兼ねたイベントでは、「老いと演劇のワークショップ」で注目を集める菅原直樹氏を招いてワークショップを開き、一般の参加者とともに体験した。
大川村は人口400人の国内最初規模の村であり、その規模は劇場公演の観客数に近いということもあり、劇場がそこに集まった人々とともにコミュニティを創造するとして、その参考となる場所でありうるのではという期待とともに訪問した。実際には直接民主制への移行は実行されないだろうということがわかった一方、少人数のコミュニティが様々な力の均衡の上に成り立っているその現状が見えてきた。また、その成果報告をイベントの中で行う際、急に天気が荒れ始め会場の楽心荘に雨が差し込み、そうする中で、報告者と参加者との関係性が、私たちの目標設定とは相いれない、劇場的な発信者と受信者の固定した状態であることに、その場に集う人たちが気づくという事態となった。最後は、一般参加者全員の意見を聞く場となった。その場はまるで、うまく機能しないコミュニティへの不満をコミュニティの成員一人一人が吐露しているかのようなものとなっていた。そして、一人一人の意見を聞くと、それまでモノトーンだった場が、急にそれぞれの意見によりカラフルになっていった。こうしたカラフルで豊かな面を生かすパフォーミング・アーツの場とはいかに可能なのだろうか、そんなことを考えるきっかけを与えてくれたのだった。このことは、今後このプロジェクトにとって大きな示唆を与えるものとなった。
(執筆者: 木村覚 京都造形芸術大学 研究経過報告会(2018.2.27)の発表レジュメより)
文:根岸貴哉(立命館大学大学院生)
2017年の7月9日に京都造形芸術大学で行われた「「未来のワークショップを創作する」ための研究会」に参加してきた。これは砂連尾理、神村恵、篠田千明という三人の作家によるワークショップのクリエイティヴな更新を目指したプロジェクトの一部として実施されたもの。
この研究会では、まず、OiBokkeShiを主宰する劇作家菅原直樹を迎えた「老いと演劇のワークショップ」があり、その後に、直接民主制へと移行するかもしれないとマスコミが話題にしていた村民400人ほどの小さな村、高知県大川村のリサーチ成果を報告する、というスケジュールで行われていった。
「老いと演劇のワークショップ」は、社会問題でもある過疎地での人口減少によるコミュニティの危機、さらには老いや認知症とどう付き合い生きていくのか、という大きなテーマのもと設定されていた。舞台芸術がそうした社会的な不安や危機に対して、どのように力をはっきすることができるのかが問われ、その後の大川村のリサーチ成果とどう繋がるのか、ひじょうに希望と期待を持って会場に向かった。とくに、砂連尾理、神村恵、篠田千明の3人の作家と、研究代表者の木村覚は、このイベントが行われる前日までに大川村をリサーチしていたと言うので、その「新鮮さ」にも、若干のワクワク感があった。
ただ、後半、事態は思わぬ方向へと展開していった。それは、発表者やアーティストにとっても、また一参加者としても、たぶん、予想外だった。この研究会の参加者として、この会自体を、ある種批評的に書き留めたい、と思った。これは、そんなぼくの、感想とコメント。
研究会の最初のプログラムとして「老いと演劇のワークショップ」と題された菅原直樹さんのワークショップが実施された。
最初にまず「認知症におけるコミュニケーション」というタイトルのゲームが実施された。これは、体に番号をふっていくことからはじまる。頭が1、鼻が2、肩が3、ヘソが4、膝が5、つま先が6、と割り振る。それをもととして、いくつかのゲームを行ってゆく。
そのうちの一つが「将軍ゲーム」と呼ばれるものだった。これは3、4人のグループを作り、その中で代表者1名を決め、この代表者が思い思いの数字を声に出す。すると、グループのメンバーは、その数字が割り当てられた身体部位を指で指し示してゆく。はじめは、代表者が声に出すのは一個の数字だったのだが、次第に将軍は二つの数字を続けて読み上げる。参加者は、連続した数字を言われた後、すぐさま両手で使う部位を指し示さなければならない。たとえば、「1、6」と言われれば、参加者は頭とつま先を同時に指差すこととなる。
さらにルールは増える。今度は自分の体を指してはいけないというルールが課せられる。すると、メンバーは数字に合わせ自分ではなく他の参加者の身体を指ささなければならなくなる。
その次のルールは「同じ人を指してはいけない」というもの。そして、このゲーム、最終的にはこれまで出てきたすべてのルールが合わさったものとなる。つまり、2つの異なる数字が読み上げられると、異なる二人の身体の部位を指差ししなければならない。菅原さんは、「皆様若いから、そんなに混乱しませんね」と言っていたけれど、やってみると意外と混乱が生じる。まわりの動きも見ながらになるので、時としてそれに合わせてしまうシーンなどもあり、周囲に「動かされる」ような感覚に陥ることもある。それは、社会のなかで「生かされている」というような感覚にも近いかもしれない。
さて、次のゲームは「椅子のワークショップ」。これは、椅子取りゲームのようなもので、一つだけ空いた椅子に、老人役の人がよたよたと歩きながら椅子に向かって歩き、座ろうとする。その他全員は協力して、この老人を椅子に座らせないように、空いた椅子に座り、また立ち上がっては別の椅子に座りを繰り返して、「一つだけ空いた椅子」を老人から遠ざけるように、移動してゆく。ひとつの約束があり、立ち上がったら、同じ席にまた座ることはできない。このゲームも、その前の数のワークショップと同様、ルールが足された。それは、「シャッフル」という掛け声がでたら、一度全員が今座っている椅子を離れなければならないというものであった。俯瞰的に、周りをみてみる。ここでも、先の「将軍ゲーム」と同じように、混乱に陥る参加者の方もいた。ただ、このゲームは自分の力だけで成立するものでもない。混乱する人がいたとしても、その隣に座っている人が周りを見ながらカバーする。カバーした人の席があけば、またそれに気づいた人がカバーする。そんなふうにして、場は協力しながら成り立っていく。僕は、どちらかといえば、周りを俯瞰的に落ち着いて見れたから、混乱というよりもカバーをする楽しみがあった。その前の、「動かされる」感覚とは違って、自分で能動的に「動いて」、ある種の共同体に交わり、関わりながら歯車をまわせるような感覚は、心地よかった。
三つ目に行ったのは「演劇のワークショップ」であった。介護現場では、常になにかしらの演技が必要になる。例えば、認知症の老人に対して、ボケの言動に対してそれを「是正」する応答をするべきか、それともボケの言動に乗っかってゆくかの二者択一を迫られることがある、と菅原は言う。「ボケを是正するか、付き合うか」。そこで「付き合う」を選択することは「ボケ」に乗っかり、老人の言動を否定しないで応答することにほかならない。そのときに、時として、嘘をつくことや、演技が求められる。
ボケに「付き合う」となればどうすればよいのか。ワークショップ参加者はグループに分かれ、グループ内で認知症役一人とその他介助役になり、例えば「食事に行きましょう」と介助者役が食事を促そうとした時、認知症役が突然「宇宙人になりたい」と「ずれた」ことを言うよう菅原はルールを設定する。さて、そうした「ボケ」の言動に、否定で応答するのではなく、ノっかっていくには、どんな言動で演じればよいか、それが即興の芝居として実施された。「宇宙人になりたい」というボケに対して、どのように対応すればいいのか、参加者が困る一幕も見られた。正解があるような答えは、たぶん、見つからない。適切な、その場しのぎの対応をすることと、一緒に考え場を共有すること。そのようにして付き合うことで、認知症役も、介助者役も、共に楽でいられるようなあり方の模索がみられた。事実、感想を言い合う場面においては、これまで解除をするなかで葛藤しながらついていた「嘘」に対して、それでいいのだと思え楽になった、というようなコメントが聞かれた。
他方、「否定のパターン」では、「宇宙人になんかなれるわけないでしょう」と、「ツッコミ」のような是正を加えることによって、認知症役の人間を否定して、現実に戻すように促す。こちらのほうは、明らかな間違いに対して事実を突きつけるのみであって、認知症役の気持ちというよりも、理性的な事実に目を向ける。正解のあるわかりやすい答えを出す、ということは、介助者側からすれば、「適切な対応」を探すよりも楽である一方で、介助者、認知症役の両者にとって、感情的な面での葛藤が生まれる。
次に、5人組で会話をするなかのうちの一人が、認知症役になり、本に書いてあるセリフしか読んではならない、というゲームが進行される。これも先と同様に、否定パターンと肯定パターンで、グループトークをする。認知症役を担った人物たちからは、以下のような感想がきかれた。
「突拍子も無いことを言い続けられる、というほうが、気を使うことなく、自分の世界に入り込めてよかった」という意見がある一方で、「肯定されているほうが、自分がその場にいることが感じられ、居心地がよかった」という、まったく異なる二つの感想が提出されていた。
こうしたワークショップがあったのちに、参加者や、アーティストの方々から、ワークショップを振り返る時間がもうけられた。
続いては、「大川村報告会」。直接民主制にいたるかもしれない村のリサーチの話で、なぜワークショップで取り上げるのか、という疑問をもつ方もいたかもしれない。主催者の木村覚によれば、「ワークショップの場が、教える、教えられる、という二項対立やトップダウンではない関係で、それぞれの参加者が主体的に関わる場である、としたときに出てきた」と言う。
大川村という、高齢化で社会の枠組みを考えないといけない場所のなかで、民主的な想像しあう場所はどのようにして可能なのか、ということを、村の現状に即して考えられていく。
しかし、その発表によれば、どうやら、村の意向としては「あまり直接民主制にしたくない」というのがあるなかで、大きく取り上げられている、という報道とのギャップも紹介された。また、少人数で村を運営していくなかで、村の内部で役割が固定されているのでは、という指摘などもあった。
こうした「報告会」のようなかたちを、ワークショップでとった、ということ自体、挑戦的でもある。事実、会場からは後に、この「報告会」がワークショップとどのように連結しているのか、が見えにくいという声もあがった。
アーティストや、発表者側は、当然ながら大川村に行く前にリサーチをしている。そして、大川村で得た調査結果を、全て、もしくは多く伝えようと尽力していたように思える。しかしながら、参加者側の知識との隔たりは大きかったように思える。実際、参加者のうちにおいても、どこまで大川村の件について興味があるのか、ということ自体、かなりのゆらぎがあったように感じる。そうしたなかでは、アーティストたちの大川村へ対する「あつい眼差し」を、参加者側が受け止めることができなかった側面があるのではないか。意見の統一や、前提のプレゼンテーションの説明よりもむしろ、「あったこと」、「現地で新しく見知ったこと」を重点的に伝えた。そのために、上記のような意見が散見されたと思われる。 しかし、そうした知識の統一は、実際社会においては難しい。知識層や、興味によって、それらの前提は常に「ゆらぐ」ものではないか。同時に、社会などの大きな枠組みを考えることは、ワークショップというある種の共同体を考えることにもつながる。逆説的にいえば、いびつな知識の階層のなかで、ワークショップという小さな共同体を考えることは、社会を考えることにもつながる可能性を持つのではないか。
さて、最後に行われたのは、意見交換だった。一応、その後、参加者を含めた、その場にいる「全員との討議」という体ではあったから、はじめのうちは参加者と作家、発表者のなかですこし議論がかわされた。ただ、とくに、予定されていたわけでは、ないようだったが、作家をはじめとした、報告者側からの提案でマイクをまわし、一人ずつコメントをしていくという形態をとってからは、討議というよりも、「参加者の発言の時間」となったような気がする。
ここでは、1分という制約のもと、参加者から思い想いの声が届けられた。コメントはもちろん、強制ではなく、任意ではあったものの、発言を辞退したのは1、2人しかいなかった。普段であれば、コメントをしなさそうな雰囲気すら漂うような人からも自発的に、コメントが飛び出した。多くの人が、参加し、参入する場となったなかで、どのようなコメントが残されたのか。以下、発言者のコメントを、まとめていこう。
突然始まったワークショップのとき「シャッフル!」の掛け声で一斉に席を移動しなければならないのが嫌でした。強制的に場に参加させられる状況には戸惑ってしまいます。 積極性のある人だけが集まり、またそうした積極性のある人々にむけてワークショップが開催されていると思っていました。しかし、見学者も含めた参加者全員に開かれた場でした。とはいえ、主催者から参加者のことだけ考えているという発言があり、参加者の気持ちは無視されていないことは分かりました。直接民主制で話題になった大川村の場合も、政治に積極的な村人だけが対象で、そうでない村人は無視されているのではないか、そういうこともありえるのではと考えました。
ワークショップの目的とは、何なのでしょう。施策づくりのワークショップは、最近、盛り上がりをみせています。ワークショップで地元住民の意見を聴いたうえで、施策のアイディアをつくる。そのアイディアやワークショップという場にお金を出していくということをやっている自治体も、実際にあります。だけど、そこではいったい、何を目指しているのでしょう。
ワークショップでは、アイディアだけを提案するのか。それとも、そのアイディアが実現できるかどうかまで、ワークショップで取り上げて考えるべきでしょうか。
あとは、無関心な層をどのようにして、受け入れて、巻き込めるのか。たとえば、金銭などを与えることによって、無関心な層を取り込んで、積極性を持たせることは可能です。だけど、それでよいのか。お金ではなく、ワークショップ自体に人々を巻き込む力があるのか、そうしたワークショップ独自の力に期待と興味があります。
様々な政治体制、あるいは共同体のあり方がありえるかと思います。大川村の直接民主主義も、その一つのあり方だと考えています。
そうした共同体がある一方で、自治体などとは異なる共同体を、アーティストの方々は作っているのではないでしょうか。アーティストの方々が作る共同体のあり方は、「共同体を作っては解体、作っては解体」を繰り返しているように思います。アーティストの方々なら、そうした、自治体などの作るような共同体とは違う、共同体を作れるのではないか、ワークショップを作っていけるのではないか、という期待感をもっています。そして、そのうえで、BONUSのイベントに来ていない人たちをどのように想定して、新しい共同体を作っていくのか。新しい展開に、期待しています。
直接民主主義がうまくいくか、うまくいかないかが問題ではなく、その言葉をきいて、「おっ」と思ってしまった人が世の中に一定数いたということは、注目に値します。社会に対する手ごたえがなくなっていった私たちの実感と直接民主主義に対して、「おっ」と思うことには、なにか我々に共有されている憧れやメンタリティのようなものがあるのではないか。
ワークショップには関心がある人、無関心な人は当然いる。なにも決めなくて上手くいくなら、それで良いと思っている人がいる。そういう人たちは、積極的に政治などに参加しません。けれど、社会を運営していくときに、そこに参加していない人も考える必要がある。参加しない人をいっさい考慮にいれない、ということは、ある種の暴力性になるのではないでしょうか。考えられないことで、私はそこの社会やコミュニティの一員なのかもわからなくなる人が大勢いるかもしれない。
シャッフルをやるのが嫌と言った方が、「嫌」と言える場があったのは良かったと思いました。言える場をつくることに意義があって、ワークショップがその意義を担っているのではないでしょうか。
学校現場や、障碍者施設でワークショップを行なうと、既存の関係性があるために、その関係性を大事にしたり、その関係性に縛られたりすることがあると日ごろ感じます。今の子供たちも、決められたルールや関係性を与えられないと遊べなかったりする。ルールがないと参加できなかったり、遊ぶことができなかったりする参加者が、ワークショップのなかにも、いるかもしれません。
けど、芸術は、すべてが必然的に説明できるものばかりではないはずです。ワークショップもそれと同じで、すべてを決めてしまったら、つまらなかったりするのではないでしょうか。昔の子供たちが、遊びのルールを作り出していったような感じで、もっとゆるくワークショップを作っていったりしてみても、良いと思いました。
喋らされるのは苦手です。けど、もし参加するのであれば、体験できたほうがいいと話しながら、思ってます。
実際に、菅原さんのワークショップをみて、参加して、演劇とのつながりがみえてきました。ワークショップも、演劇も「コミュニケーション」で、相手を思いやったりすることが、ワークショップを通じて、よりわかりやすいカタチで見えたと思う。即興の演劇や、ワークショップでは、周囲の人がどういう人かわからない。それでも、からだを動かしながら、与えられたワークショップをこなすことによって、周りの人のバックボーンとかを知らないままでも、緊張感なくコミュニケーションをとることができたのは、よい発見だったと思います。
日々、なんとも言い表せない「モヤモヤ」があって、その解決策を探すために、いろいろな場所に行っています。ただ、ワークショップのような集団で、何かを目指してやる、というようなスタイルよりも、1対1でレッスンのようなカタチで教わるほうに、今は手ごたえを感じています。もちろん、ワークショップがだめ、というわけではないんですけど。
ワークショップとレッスンでは目的が違います。けれど、レッスンには連続性があって、知識や体験、関係性が積み重なられていく。そうしたなかに、新しい何かを見ることが出来る、みたいなことも、あると思ってます。ワークショップにも、そうした連続性があっても、良いと感じました。
新しいワークショップをこの場にいる人たちが主体になって、考えていくことはすばらしい。だが、その一方で、これまであるワークショップの研究や形態をもっと紹介して、共通の理解を作ったうえで、考えていったほうが、良いのではないか。
大川村については、なぜ、この村がこのような状態になったか、という歴史を考える必要があると考えています。大川村は過去に、ダムの問題などで、直接民主制じゃなかったにせよ村総出で反対しても覆らなかったという歴史がある。なにかを決定するときに、大川村のそうした歴史や、村人の意識が、どのように関わるのか。個人個人の体験や、場所にある歴史性、そうしたものを背負って、村人が直接民主制で決めていくとき、どのようにつながっていくのかが、議論のポイントになると思っています。
そもそも、なぜワークショップを問題としているのかが、わからないまま、参加していた。
ワークショップに参加するのが好きな人が集まって、新しいものを考える場だったのか、それとも、ワークショップのフォーマット自体を考えるという場だったのか。そのあたりが、よくわからなかった。
自分は、ワークショップをしてくれ、と頼まれることがある。アーティストに「作品をつくってくれ」と言うと予算的にも、参加する側としても、頼みづらいのでしょう。だけど、ワークショップという形式であれば、クライアント側も、参加者も、作家側も入りやすいというコトがあるように感じる。作品のように深く考えずに場を作ることが出来る。そのなかで、なんとなく自分の問題意識や、手法を薄めたりして、ワークショップならできる。気軽にできてしまう。そういう、参加者が「なんとなく体験」して、その「なんとなく」で満足してしまう、というような感じが嫌いなんです。
障碍者施設や、介護の現場などで、利用者の方がなにを求めているのか、わからないでいました。認知症の人の、的外れな発言に対して、いつも悩みながらも「嘘」で返していて、心がすごく痛かった。嘘をついて、ごまかして返事をすることが正しいのか、いつも迷っていたのですが、今日のワークショップを受けて、それでいいんだと気付けました。それで気持ちが楽になって、すごく勉強になりました。そのワークショップは――認知症患者の方だけでなく――他人のことを自分のことのようにして、考えるツールでもあったように思えます。直接民主制においても、その場にいない人のことを考えられるような取り組みや実験をしていけたら、もっと可能性が広がるのではないでしょうか。
私は、踊りやダンスが好きです。ただ、最近は「アート」という言葉に、なにか青臭さを感じてしまい、気恥ずかしく、言葉にすることができません。どうすれば、抵抗なく、「アート」と公言して、取り組むことができるのかは、わからないです。ただ、ワークショップであれば、今の私であっても、自発性をもって参加することができます。
アートやワークショップでも、なにかテーマを設けることがあると思います。そのテーマも、自然と決まることが理想かもしれません。ただ、テーマが自然と決まることはなかなか難しい。建築であれば、高いところから低いところへ自然と人が流れてしまう、といったような構造でコントロールできますが、抽象的な「場」や芸術では難しいと思っています。そのあたりを、どのようにアーティストの方々や設計していくのか、興味があります。
ワークショップに参加するにあたって、どの程度踏み込んで参加するのか、また、見学するのか、それとも積極的に参加するのか、といったように、参加者は、自らの意思によって参加の形態や強度を選ぶことができる。そのようにして、参加形態を選べるということが、ワークショップの特異性だと考えています。
劇場や、演劇のようなアートでは、基本的には一方的に行なわれていることを受容することだけで、参加形態を選べません。それでもアートは、他者性を尊重し、固定観念やシステムを逆転することができる可能性をもっている。アートとワークショップの両輪で考えたときに世の中に対してどういう効果があるのか。
ワークショップやアートの場のなかで、集団性やアクセシビリティ、それらがどうあるべきかなのか。アートとワークショップが、いい影響を人に与えていくにはどうすればいいのか。そうしたことを考えていく場に、BONUSがなればいいと思う。
菅原さんがやっていた、一人の人が座ろうとして動くのを、周りの人が連動して椅子に座らせないようとするワークショップは、全員が関与しないといけない。ある場所に対して、確かに自分が関与しているんだ、ということが体感を通してわかる。それは、ワークショップや、なにかの場に参加することで、自分が影響を与えるということを実感できて、とても良いと思いました。
関連して、建前を開発するということについて考えていた。それはいろんな間柄をつくることではないでしょうか。ワークショップも、まわりと連動して動くことで、間柄や空気感を大事にする、ということがあった。自分が動かなければならない状況は、誰かとの「間柄」をかえるということにもつながる。間柄をかえて、固定化したものが崩壊する。そのときに、もしかしたら、これまで自分が言ってきた意見は、関係性や、空気を読んでの発言に過ぎないかもしれない、と、気付けるかもしれない。
舞台に関与する人とそうでない人が触れ合って、得られるものは、どんなものなのでしょうか。ワークショップには、参加しない自由もあると思いますし、ワークショップには政治のような統一した意見も必要なく、ばらばらな感想があってもいいと思います。そういう、自由な空間が、ワークショップ的なのかもしれません。その自由な空間、ばらばらな感想が生まれてくるワークショップを開くことによって、未来的につながる希望がみえてきたらいいな、と思いました。
障碍者施設の現場で働いています。そのなかで、気に入った言葉がありました。
それは、「支援」という言葉を「応援」という言葉にかえていることです。つまり、介護の現場は、生きるための応援である、ということです。
ワークショップの場も、支援ではなく、なにかしら、よく生きるための「応援」に、つながる気がしています。
建築や待ちづくりの分野で行なわれているワークショップでは、最終的に専門家のファシリテーションが必要な場面が多くあり、専門家の方々が話をすすめないと、よいものができない、という現状があるように感じています。
仮に、大川村で直接民主主義をやる場合であっても、ワークショップをする場合であっても、ファシリテーターや主催者の思想や考え方次第で、様々な方向にも誘導できる可能性があるのではないでしょうか。そこには、ある種の危険性もはらんでいる、と危惧しています。なので、ファシリテーションをどうしていくのか、ということが、ひじょうに大事な問題なのかなと思っています。
ワークショップを含めた、いろいろな場において、ある種の排他性は、常にあるのではと考えています。
今回のイベントでも、記録係の人は記録をするだけ、受付をやっている人は受付をしているだけ、となってしまって、ワークショップに携わっているのに、ワークショップ自体に参加できていない、ということがありました。そういう役割すらも壊して、興味のある人や、偶然いあわせた人さえも巻き込んで、議論やワークショップに入ってくることによって、ワークショップは広がりを見せるのではないでしょうか。ワークショップへもっと気軽に参加できるようになれば、いいと思いました。
そうした活動を続けていって、すごく参加形態の強度が高い人が、主催者側に入り込んでいく、というような展開も面白いと思いました。
いま、みなさんのいろいろなご意見を聴いているなかで、思ったことは、共通言語がない、ということです。我々には今、なにか言いたいことはあるけど、喋れる場所がないという状況のなかにいる。そうしたなかで、人が集まって、喋ったり、討論したりできるような場所をもっと設定いく必要性があると感じた。そういった場所で、コンセンサスや、規律が、どのように構成されたりしていくのか。そういうことを実感的に学んでいくことは、直接民主制の政治体制につながるのではないか、と提言したいと思います。
すこし、強制的に、何かをやらせてみると、やってしまう人っていると思うんです。どういうレベルのことなら、やってしまうのか。どの程度の嘘なら、人はついてしまうのか。
ワークショップのなかでも、菅原さんは、認知症の方から「メガネ屋さん?」と聴かれたときに、思わず「メガネ屋さんです」と答えてしまう、といったようなことがある、という事例を出していました。それと同じように、ふとマイクを持たされてしまうと、喋ってしまう人がいた。そういった事例を並べて、やってしまうライン、みたいなことを考えてみるのは、どうでしょうか。
以上、まとめてみると、それぞれ論点が異なることがわかる。それでも、この研究会という刺激を通して––このルポのように––言わなければならない、というような衝動にかられた者も多かったのではないか。
また途中、突如として大雨が降り始めた。そのとき、発言の場は中断され、自主的に雨に濡れないように、靴を室内へと運ぶ参加者、それにつられてほとんどの参加者が、協力的に会場に対する雨対策を講じはじめる。小さなコミュニティのなかで、協同的に動く参加者。そのインターバルがあってからは、コメントの質も若干かわったように思える。それは、内容というよりも、意識の問題かもしれない。もちろん自分の言いたいことを言う場でもあるけれど、それと同時にさきほどまで一緒に動いた人々を意識する場にもなったからではないか。研究会という小さなコミュニティが、全員顔を見知っているというような、ある種の村社会のようにもなって、「直接民主主義」的な発言が続いていった。
協同的に片付ける時間もあり、自分のための発言もある、という部分だけみれば、それは「カオスな時間」だった。そうした混沌さこそが、現代の象徴的な出来事であったようにも思われる。そして、そのカオスな時間を共有できたことが、研究会の意義の一つだとも思えるほど、その時間は不思議で存在感のある時間だった。
例えばこのような方のご参加をお待ちしております。
◎ダンス・ワークショップの講師経験者のみなさん
◎ワークショップに関心のある方
◎ポスト・モダンダンスを知りたい方
◎現在の社会に不安、欠乏、危機を感じている方
◎サバイバー、媒介者、誘惑者になりたい方
◎ダンスや舞台芸術を介して社会を考え、社会を作りたい方
◎ダンス×映像に関心のある方
◎今後のダンス表現の行方を知りたい方
◎振付家・ダンサー・演出家・俳優・観客・舞台制作者……
◎その他、現在を生きているすべての方
振付家・ダンサーの砂連尾理さんと神村恵さん、演出家・作家の篠田千明さんの三人を協力者に、今年度のBONUSは「ワークショップ」の可能性を探っています。ワークショップとは観客が能動的・主体的に参加できる、非常に可能性を秘めた、しかしまだ開発途上の芸術の形態ではないか、そんなことを考えています。黙って客席で鑑賞している場合ではない(?)世界になってきて、不安や欠乏や危機を感じるけれど、そんな世界だからしなやかに生きる「サバイバー/媒介者/誘惑者」にあなたもわたしもなっていかなきゃ、なんて気持ちにもなります。そうした状況のまっただ中で、ダンスはどんな力が発揮できるのだろう?どんな社会をダンスは生み出せるのだろう?三人の作家、ゲスト講師の皆さん、そして一般参加者のみなさんと一緒に、ダンスと社会の次なる関係を探してみたいと考えています。
日時:2017.12.23-24
場所:日本女子大学新泉山館
料金:無料
助成:
日本女子大学総合研究所研究課題64 ダンス史に残るマスターピース再現プロジェクト 研究メンバー
京都造形芸術大学〈舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点〉2017年度共同プロジェクト「「ダンス2.0」の環境構築を通して今日的教育という課題へとダンスをつなぐ試み」(研究代表者: 木村覚) 研究メンバー
協力:
京都造形芸術大学〈舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点〉2017年度共同プロジェクト「老いを巡るダンスドラマトゥルギー」(研究代表者: 中島那奈子)、一般社団法人日本パフォーマンス/アート研究所
フライヤー制作:内田圭
撮影・動画編集:久保加奈子
映像にはダンスの何が写っている/いないのか?
濱口竜介と考える映像とダンスの関係・映像/身体を媒体に生まれる社会の形
ゲスト:
濱口竜介(映画監督)
川崎公平(日本女子大学・映像研究)
砂連尾理(振付家・ダンサー)
司会:木村覚(BONUS)
概要(フライヤーより):
現代は「踊ってみた」などを挙げるまでもなく映像を媒介に大量のダンスが流通している時代です。その一方で映像にはダンスは映らないという考えはいまだ根強い。映像にはダンスの何が写っているのか、何は写らないのか、問うてみたくなりませんか。「トリオA」と濱口竜介さんの映画作品を取り挙げながら、ゲストともに映像とダンスの本質へと迫っていきます。
「トリオA」を研究してあなたのダンスを創作してみよう
ファシリテーター:神村恵(振付家・ダンサー)
サポーター:木村覚(BONUS)
概要(フライヤーより):
50年以上前に生まれたポストモダンダンスは、ダンス史の決定的な更新を引き起こしました。とはいえ、その可能性をぼくたちはまだ十分に使いこなしていないかもしれません。これは、ポストモダンダンスの代表作「トリオA」の研究し、それを触媒にして、未知のダンスをあなた自身が創作してみるためのワークショップです。きっと誰でも「未来のダンス」を創作できます。
中野民夫さんと観客×ワークショップの可能性を考えてみよう
ファシリテーター:中野民夫(東京工業大学教授)
ゲスト:宮晶子(日本女子大学・建築家)
概要(フライヤーより):
ダンスのワークショップは数多実践されているけれど、そもそも「ワークショップ」とはどんな目的があって生み出され、どんな方法が編み出されてきたのか、いま、振り返っておくことはとても大切なことではないでしょうか。『人工地獄』のクレア・ビショップは自治的な集団の場を回復させ、生起させる形態として参加型アートを定義しましたが、ワークショップもまた集団の創造(集団で創造すること/集団を創造すること)の場であると考えます。ワークショップのエキスパートである中野さんと実践的に考察してみます。ゲストの宮さんからも建築の立場から刺激をもらいます。
不安と欠乏から「民主主義」を構想する
BONUS1月イベントに向けたプレイベントとして
ファシリテーター:
砂連尾理(振付家・ダンサー)
神村恵(振付家・ダンサー)
篠田千明(演出家・作家)
サポーター:木村覚(BONUS)
概要(フライヤーより):
来年の1月下旬のBONUSのイベントでは「ワークショップ」の創造をテーマに展開する予定です。初夏に砂連尾さん、神村さん、篠田さんにBONUSから「ダンス上演のオルタナティヴとなるワークショップを発明してください」という課題を渡し、目下、その「発明」に向けた活動を続けております。集団の創造の場であるワークショップによって、ぼくたちは自分たちのいまの思考をどこまで更新することができるのでしょう。トークとWSを往復しながら、受講者のみなさんと「未来のワークショップ」を探索していきます。
このプロジェクトは二回のイベントを実施した。12月23-24日には、東京(日本女子大学)にて、「サバイバー/媒介者/誘惑者を作るためのワークショップ」というタイトルで、4パートからなるイベントを行った。このタイトルは、舞台芸術の作家が自分たちの力を社会生き延びコミュニティを形成するのに生かすとしたら何が可能かを、あるいは参加者にどんな存在になってもらいたいか、あるいは参加者がどんな欲望を携えてイベントに参加してほしいかを考えてのものであった。
パート1は、映画監督濱口竜介をお招きして、映像にはダンスの何か写っているのか、写っていないのかを議論しました。パート2は、イヴォンヌ・レイナーのよく知られた「トリオA」という作品を触媒にして、その作品の持つ本質を応用することで、参加者たちが自分たちのダンスを創作するというワークショップを、神村恵さんをリーダーに実施しました。これには、中島那奈子さんが代表となったプロジェクトの協力があました。神村さんがレイナーのグループメンバーから「トリオA」の稽古を受ける、作品上演のダンサーとなるという成果によって、このワークショップは、実に有機的で生き生きとしたクリエイションの場となりました。パート3は、東工大の中野民夫氏にファシリテイターになってもらい、直径90センチ程度のダンボールを囲んで会話する「えんたくん」の実践などを行いました。その場にいる人全員をリソースにする方法を学びました。パート4は、三人の作家に翌月に行う京都でのイベントの試演を行なってもらいました。大阪に居る佐久間新さんとスカイプを介して音楽を参加者全員と創造したり、ものを口に入れたり、他人を噛んだりするワークショップは、実際、次に紹介する京都でのイベントのプロトタイプとなりました。
このイベントの最大の成果は、ワークショップという形態を持った上演作品というイメージを獲得したことでした。上演とは、作家のアイディアをダンサーが実現し、その内容を観客が受容するというのが一般的です。「ワークショップという形態を持った上演作品」とは、作家のアイディアが触媒となって、ダンサーではなく観客の位置にある参加者が踊ることで上演が実現するものであり、その際、参加者は演者であり観客であり、二つの役割を同時にこなし、そうする以外には鑑賞できないというものとなります。二時間ほどで到達できる範囲は限られているけれども、エリート的な身体がじっくりと準備したものとは異なるけれども、作家のアイディアを味わうその質は非常に高いと感じました。
(執筆者: 木村覚 京都造形芸術大学 研究経過報告会(2018.2.27)の発表レジュメより)
サブタイトル(フライヤーより):
する/しないはあなた次第その場次第
芸術のネクストディメンジョンをみんなで探します!!
参加者大募集!!!
ダンスを作るためのプラットフォームBONUSは、ワークショップを掘り下げるイベントを行います。協力してくれるのは、砂連尾理(振付家・ダンサー)、神村恵(振付家・ダンサー)、篠田千明(演出家・作家)の三人。12月の東京でのイベントを経て、今回、フレッシュな「未来のワークショップ」を試作します。ワークショップは観客を暗がりから連れ出し、作家のアイディアを、観客が自分の体を使って体感する場です。さらに言えば、ワークショップの場は、作家と観客がひとつのコミュニティを生み出し、そのことが芸術において「社会」を考えるよすがとなるはずです。もっと言えば、作家と観客が役割を入れ替えて、観客が自分の能力を他人に渡すワークショップを作ることだって出来るはずです。このワークショップでは、三人の作家が蓄えているダンスや演劇のアイディアをベースにして、参加してくださる皆さんとサバイバー/媒介者/誘惑者/観察者を作ります。
こんな方にこのイベントはオススメです。
◎ダンス・ワークショップの講師経験者のみなさん
◎ワークショップに関心のある方
◎砂連尾理、神村恵、篠田千明のアイディアに触れたい方
◎現在の社会に不安、欠乏、危機を感じている方
◎未来を生きるサバイバー、媒介者、誘惑者、観察者になりたい方
◎ダンスや舞台芸術を介して社会を考え、社会を作りたい方
◎今後のダンス表現の行方を知りたい方
◎振付家・ダンサー・演出家・俳優・観客・舞台制作者……
◎その他、現在を生きているすべての方
実施予定のワークショップ(タイトルでどんなワークショップか想像してみてください。中身は当日のお楽しみ)
「子どもが社会の宝なら、病を抱えた老人も宝であって良いんじゃない! ワークショップ・家族模様替えプロジェクトー老いて病を抱えた親を支え合うための新たなネットワークづくり。」
「ずっこけ講座」
「空気を読むワークショップ」
etc.
会場:京都造形芸術大学Studio21
日時:2018/1/28(Sun) 12:00-18:00(出入り自由)
助成:京都造形芸術大学<舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点>2017年度共同研究プロジェクト「「ダンス2.0」の環境構築を通して今日的教育という課題へとダンスをつなぐ試み」(研究代表者: 木村覚)
研究代表者:木村覚(日本女子大学 BONUS)
研究分担者:伊藤亜紗(東京工業大学)
研究協力者:神村恵、篠田千明、砂連尾理、小沢康夫(一般社団法人日本パフォーマンス/アート研究所)
「舞台芸術の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点」は、京都造形芸術大学・舞台芸術研究センターが母体となり、文部科学省「共同利用共同研究拠点」の認定を受けて2013年度に設置された研究拠点です。
ウェブサイト:
http://www.k-pac.org/kyoten/
協力:京都造形芸術大学<舞台芸術作品の創造・受容のための領域横断的・実践的研究拠点>2017年度共同研究プロジェクト「老いを巡るダンスドラマトゥルギー」(研究代表者: 中島那奈子)、一般社団法人日本パフォーマンス/アート研究所
1/28には、これまでの成果を活かすべくイベントが行われました。三人の作家との協議の中で、東京編とは異なり、パートを分けることなく、休憩はいくつか挟まれるものの、12時から18時までの六時間ノンストップの場が設けられました。タイトルには、東京編で用いられた言葉に「鑑賞者を作る」が追加されました。これは7月のイベントに端を発します。あの時、篠田さんが、突然、試したいワークショップがあると言い出して、参加者を誘ったのですが、急に強制的にやらされたくないとの意見が出て、結局そのワークショップは試されぬままになりました。その時、参加したくない人にもコミュニティはそのポジションを用意するべきなのではないかとの議論が起こり、それがこのような形で反映することとなりました。
いくつかのワークショップのアイディアの中に、大川村の村民の方からスカイプを媒介して、大川村の伝統的な踊り太刀踊りを学ぶというものがありました。そして、最後のパートは、大川村に再度つないで、村民の方達に、太刀踊りを含む今日の成果を披露するというものになりました。このアイディアは三人の作家が協議した末のものでしたが、残念ながら、舞台と客席という劇場空間に戻ってしまうものだったと言えます。私たちは、一般参加者たちとともにコミュニティ形成の力を獲得すべくワークを重ねていき、最後に、そこで形成されたコミュニティの外部へと自分たちを接続させる、というところまで行き着きました。しかし、結局のところ、成果を上演するという形で劇場構造が持ち込まれたことで、村民の皆さんを疎外された存在にしてしまいました。スカイプ越しという難しさも手伝って、真剣に見てくださっている村民の皆さんは、よくわからないけれども、きっとすばらしいものを見ているといった目をしていました。時間がなくなってしまったこともあり、成果のまとめは作家たちが主導し、その分、参加者たちの意見が反映しにくい状態になったこと、大川村の村民の方たちに、もっとこちらで試みていることの意義をシェアできるようにすること、反省点は色々と思い浮かびます。また、そもそも、ひょっとしたら「成果発表」という発想に、危うさがあるのかもしれません。しかし、ともかくここにたどり着いてしまったという事実を反省することは大事な糧となるでしょう。ここを出発点に、再度、進むべき道を検討しなければと、思いを新たにしました。
(執筆者: 木村覚 京都造形芸術大学 研究経過報告会(2018.2.27)の発表レジュメより)
文:根岸貴哉(立命館大学大学院生)
2018年、1月28日、京都造形芸術大学で行われた、BONUSでの「サバイバー/媒介者/誘惑者/観察者を作るワークショップ」が終わった直後の、率直な感想。
BONUSは「ダンスを作るためのプラットフォーム」として、様々なイヴェントを開催してきていたけれど、ぼくは、これまで、そのいくつかには参加していた。そのなかには、ダンスを発表する場であったり、ダンスに関する議論を共有する場であったり、過去の傑作を復元するプロジェクトがあったりした。
そういう活動を傍目にみながら、「ダンスをつくるためのプラットフォーム」の一端を見ていた。なるほど、たしかに、こうした活動はダンスをつくるための一助にはなっているなあ、と。
そんななか、昨年くらいから、BONUSはこれまでとは少し違うプロジェクトをはじめる。それは、「ワークショップ」。いくつかのワークショップに参加するなかで、ワークショップということの奥深さ、面白さには気づけはしたものの、勘所の悪いぼくからしたら、「ワークショップをつくるワークショップ」がどのようにして、ダンスをつくるプラットフォームにつながるのか、わからなかったりもした。「つくる」という接点はあるとしても、ダンスがそこで生まれるのか。いや、ワークショップの動きは実はダンスである、というような論法に持って行くのか。そんな少しうがった見方をしたりもした。
2017年の7月に行われた、「『未来のワークショップを創作する』ための研究会」では、直接民主主義を導入する可能性のある大川村へリサーチへ行った作家と研究者の方々の報告があったり、ディスカッションがあったりして、それこそ「直接的な」ダンスへの関わりが見えてこなかった。
正直に言うのであれば、今回のワークショップは、12時から18時(実際には19時くらいまで)と時間にしては珍しい長さで、「サバイバー/媒介者/誘惑者/観察者を作るワークショップ」というタイトルに関しても、「?」が浮かんだ状態で臨んだ。ある意味でぼくは、そこで行われる「ワークショップ」には期待していたけれど、「ダンスを作るプラットフォーム」という意味の部分には、あまり期待していなかったのかもしれない。
だけど、この「サバイバー/媒介者/誘惑者/観察者を作るワークショップ」は、それまでのぼくの悩みや疑問を、全部払拭してくれるものだった。
今回のワークショップでは、まずはじめに、参加者の「サバイバー/媒介者/誘惑者/観察者」のイメージを共有するところからはじまった。円状のダンボールに、それぞれがどういったイメージを持つのかを記して行き、ディスカッションをする。そうした共有が、作家の篠田千明からナビゲートされたあとで、「空気を読む」から行われた。これは、じゃんけんを模した形式で、三つのポーズを決める。数人のグループになり、それらのポーズを「合わせる」ことを目指す。グループ内で、「せーの」で同じポーズになればミッションは一旦おわり、違うグループと合体して大きなグループでまた同じポーズになることを目指す。最終的には、参加者全員が円になり、3回、5回のうちで同じポーズになれるのか、ということを目指していくこととなった。
ポーズのなかには、「楽にできる」ポーズと、すこし気合が必要なポーズがあって、どうしても楽な方に流されて一致してしまうこともあった。それを防止するために、アイコンタクトなどで、「こっちのポーズに来い!」とアピールをする者、まわりの数を数えてどちらが優勢かを見極める者などがいた。前者に関しては、どちらかというと、空気読むというよりも「空気を作る」ようでもある。
次のワークショップは、踊りを習う、という感じだった。BONUSでリサーチしていた大川村とビデオ通話をして、現地の踊りを教えてもらう。手ぬぐいを使った踊りは、手ぬぐいの扱いに少し苦戦をする人たちもいたけれど、踊りのはじめの部分は(多少の混乱はあったものの)参加者全員がマスターしていたように見えた。それは、小学校の運動会で体験する、ダンスのレクチャーのようで、すこし懐かしい気分になった。プロのダンサーの踊りを見るわけでも、その人たちがレクチャーをするわけでもなく、なんならプロのダンサーも一緒に民族的な踊りを学ぶ。ここでは、プロのダンサーや作家が上で、参加者が下、といったようなヒエラルキーが、すこし解体されているような、そんな気がした。
三つ目(?)は、音楽を作るようなワークショップ。これは、ジャワ舞踏家の佐久間新さんが主導していく。最初に、作家の砂連尾理さんと、佐久間さんが、こうした音楽がつくられた背景を説明する。そのあとで、参加者はこの日行われたワークショップのなかで、気になったりしている言葉をペンで紙に書いていく。それらが板書されて、そこに曲が乗せられて行く。曲は、参加者が数字をあてはめて、そこに音がのせられる。音楽の詳しいことはわからないけれど、それはほとんどの参加者も同じで、手探りで今日あった発言や言葉に、音がつけられていく。できていく曲は、和声や楽典などを知っている人からしたら、たぶん考えられないような曲で、覚えやすいような覚えにくいような、馴染みがあるようなないような、不思議な曲になる。
次は、外へと移動して、「音を聞く」ワークショップ。肌寒い外のなかで、いろいろなものに耳をあてて、「音がするもの」を探す。あったら、その場にとどまって、共有する。この日は近くで工事をしていたから、振動しやすい素材からは、ドリルの振動音なんかが聴こえてきた。
そのままの流れで、当初ワークショップで使用していた場所とは違う室内へと移動。そこでは、口内感覚に関するワークショップが行われた。一つのテーブルに四つの椅子。参加者はそこに順次座っていく。テーブルに上に並べられた紙皿には、卵ボーロ、おかき、クリップ……。参加者はそれらを口に入れていく。ただ、普通に食べるのではなく、噛まないようにする。口の中で変化するそれらの食材の「感覚」を味わう。クリップという普段食べないものも同様に、口のなかでどのような味になるのか、感覚になるのか、その細部を確かめていく。他の参加者と、それらの感想を言い合うなかで生まれてくる言葉は、なんだかとてもポエティックで、そんな表現ができるものなんだな、と自分でも驚いたりもした。
その次は、包帯を巻くワークショップ。紛争地帯で巻かれる包帯の映像を見た後で、二人一組になって、相手の手に包帯を巻いていく。すこしひんやりした包帯のやわらかい感触と、思ったよりも慎重になってしまう包帯の扱い方を体感した後で、ほかの包帯の使い方、遊び方を探っていく。包帯を巻いたり巻かれたり、遊んだり遊ばれたりするなかで、ここでは「参加者」ではなくて「観察者」になってもよいということだったので、ぼくはそっと抜けて色々な人の遊び方を見て回る。包帯を縄跳びにする人、バンテージにする人、一つの包帯をお互いに巻いてみる人。いろいろだったけれど、ここでぼくが「観察者」になってからは、すこし遠巻きになっていく。
一通り、最初の会場から離れたところでのワークショップが終わってから、もう一度会場に戻る。
今度は、さきほど教えてもらった大川村の舞踊を、我々流にアレンジをして、大川村の人々へとむけて発表するという。他方で、佐久間さんと共に作る音楽を、さらに発展させる。どのようにして、踊りをアレンジするのか。どのようにして、音楽を発展させるのか。この二つの議論が同時並行で行われた。もちろん、どちらのグループに属してもよいし、途中でグループを変えたりしてもよい、とのことだった。ぼくは両方のグループをいったりきたりしながら、議論を聴いていたけれど、ぼくのほかに見回るような人はあまりいなかった。行ったり来たりするものだから、議論にも入りづらい。両方の議論に耳を傾けながら、行く末を見守った。
そして、そうした議論をした後で、踊り、音楽の二つのグループにわかれて、実際にアレンジや作成が発展していく。このあたりで、ぼくはもう完全に「観察者」になっていた。二つのグループに耳を傾けたために、実践をするほど中に入れない。というか、入っていく「力」がなかった。かといって、「媒介者」となるようなバランス感覚と「つなぐ力」があるわけでもなく、ワークショップ参加者のなかで「サヴァイヴ」できなくなっていった。
だけど、ある意味、ここで「観察者」にまわったことは、いまになってみれば、よかったのかもしれないとも思う。
それは、最初の感想に戻る。そこの場はまさに、「ダンスをつくるためのプラットフォーム」だった。それを目の当たりにできたことは、大きかった。
どういうことか。二つの組みは、ディスカッションのなかで、思いついたアイディアを実践していく。ダンスの組みは、たとえば今日使った包帯をダンスに取り入れて、大川村の踊りにおいて重要な「手ぬぐい」のかわりにするという。音楽の組みは、今日聴いてみた色々な音を使ってみる。それを音楽に取り入れていく。
そして、それらが融合する。ダンス組と音楽組で対話がなされ、せっかくだから音楽をダンスにも取り入れる。そして、そこには明確な主導者はいない。ある程度、導く人はいたとしても、また発言を多くする人はいたとしても、それぞれの意見がかわされる。強制的な空間でもなければ、作家がヒエラルキーのトップにいるわけでもない。ゆえに、そこに特別な「技術」は必要がない。ただ必要だったかもしれないのは、そうした場において「サヴァイヴ」する力。
二つのグループが媒介され、またそのなかにはサヴァイヴする力が求められ、サヴァイヴから脱落して観察者になっていたぼくも、どこかそこに入りたいというような誘惑性を感じる。ああ、ここにきてすべての要素が揃っている。そして、すべての要素が揃ったその場は紛れもなく「ダンスを作るプラットフォーム」だった。